縄文好きの僕としては「仙台市縄文の森広場」に是非とも行ってみたかったのですが、計画を立てるのはかみさんなので確信を持って絶対「地底の森ミュージアム」の方がいい・・・と言われると「何の根拠があってそう言うのか、あんたは行ったことがあるのか」と突っ込んでも無駄。こちらも「縄文の森広場」の方がいいという根拠もないので、この旅行の立案者の意見に従わざるを得ない;;; ところが、ところがである。。 |
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地底の森ミュージアム館内 |
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「地底の森ミュージアム」・・・・館内のボランティア案内人の方の言うように「今なら事業仕分けで建設はありえないでしょう」という言葉がリアリティーがありました。というのも高々2万年前の旧石器時代の針葉樹林跡が、歴史的遺産として、これだけの予算を掛けて残す価値があるのか・・・・・という疑問を抱いてしまうからです。そして同時に、お金があるということはいいことだと思いました。残せる余裕があるのなら、すべての歴史遺産をのこしたほうがいいに決まってます。バブルが弾ける前に建てておいてホント良かったと思います。 ところで、このミュージアムですが、訪れる人は先ずないとおもいますが、展示空間は広く、その演出も見事でした。 ちょっとそのスケールをこのページで表すのが難しいのですが、上の画像の上部真ん中辺りにある壁の明かりが、実は入り口のドアから漏れ入る光です。かなり広いスペースがお分かりになると思いますが、どうでしょう。 |
「地底の森ミュージアム」施設概要
<施設構造> |
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入り口のスロープ 約2万年前の鹿の糞 |
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富沢遺跡では昭和62・63年(1987・1988)に小学校建設のための事前調査が行われました。遺跡内では30回目の調査だったので「富沢遺跡第30次調査」と呼んでいます。上から順に近世・中世・平安時代・古墳時代・弥生時代の水田跡、植物の根や茎がよく残っている土(泥炭層)、その下からは縄文時代の穴や倒木の跡が見つかりました。さらに2m下(現在の地面から約5m下)からは、約2万年前の旧石器時代に生きた人達の活動跡と森林跡が一緒に見つかりました。 このことは世界的にも貴重な発見だったので、遺跡を発掘されたままの状態で保存・公開するために、建設を予定していた小学校を別の場所へ移し、地底の森ミュージアムを建てることになりました。その後、平成8年(1996)11月2日に開館しました。(地底の森ミュージアムの成り立ち) |
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(ミュージアム解説より) ? アザラシ? |
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今回、当ミュージアムの企画は「動物の考古学」。この企画にもあまり期待していなかったが、これにも期待を裏切られ素晴らしい発見があった。 あの縄文土器(火焔土器)のフォルムが、あまりにもユニークで衝撃的なので、つい縄文の人々はエネルギッシュだけれども表現は稚拙でへたっぴと思いがちだが、どうして上の画像にあるように可なりの表現力だ。今まで、こういった動物などの具象的な縄文の遺物を目にしなかったこともあって、沢山の動物形土製品を前にすると、縄文美術のイメージを変えなければならないことに気付く。その意味で『地底の森ミュージアム』との出会いは、僕にとって大きな収穫になった(ここは素直にかみさんに感謝しなければ;;;)。 つまり、僕らは(僕は)あまり縄文の資料を目にしていないということなのかも知れない。 ・・・・・・さすがに弥生まで下ると更に表現は巧みになるのだが。↓↓ |
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猪...........弥生時代 |
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昔から縄文には惹き付けられていた(40年以上前に読んだ岡本太郎著の「今日の芸術」 の影響が大きいかも知れない)が、ここにきて縄文時代の漆工芸の遺物が数多く発掘されてきていることで、そのレベルの高さに驚かされている。縄文の漆工芸の技術レベルが高いことを証明することが出来たのは、恐らく三内丸山遺跡の遺物『縄文ポシェット』などの発見によるところが大きいと思う。 漆そのものは植物ではあるが、乾いた漆そのものは土中に埋まっている限りにおいて、数千年を経てもあまり変質することなく遺る。漆工芸品は、木胎や植物繊維を編んだもの等が多いので、漆をのせている木胎や竹などが数千年単位の時を経ることで溶解してしまい、結局単体の器物として遺ることは幸運な条件(湿地帯などの水分の多い寒冷地など)が揃わないと難しい。従って、数千年単位での考古学的な”物証”が揃わず、その起源はもちろん、歴史的変遷も先ず検証することが難しい。 発掘という作業を進めるには、それを支える人的資源は勿論、経済的サポートも必要なので、それを進める自治体や国などがある程度豊かでないと無残にも潰され埋め立てられ、その上にビルが建ったりしてしまう。三内丸山遺跡は、2000年に国特別史跡に指定されたとあるのでバブルが弾けていたとは言え、未だ日本が豊かだと思われていたこともあり、発掘事業は積極的に進められたことは幸運だった。 そして地底の森ミュージアム 冊子『漆の考古学』によると、ここにきて縄文時代の漆工芸品が保存の状態も良く発掘されているとある。 |
DNA分析によるウルシの起源 (三内丸山遺跡特別研究推進事業の研究成果) 実施年度 平成10年度 研究テーマ DNA分析によるウルシの起源 研究者 佐藤洋一郎 内 容 ウルシの技術は中国由来のものであるという説と、日本固有のものであるという説がある。そこで、ウルシノキの植物としての起源を明らかにするために検討を行った。 現在のウルシ属はDNAの配列によって種に分類できるか、また現在のウルシノキの品種をDNAの配列で区別できるか、現生の葉を利用して調査した。蓄積された過去のデータがないため、現生標本の収集から行った。 出土ウルシ属種子のDNA分析を行った結果、ウルシ属のうち、ウルシノキのものであること、また日本列島のどこかで栽培された可能性が高いことが示された。 |
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縄文ポシェット |
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イグサ科の植物で編まれ漆加工された、大きさ約13センチメ-トルの小ぶりでモダンなポシェット その中に割れたクルミが1個入ったまま三内丸山遺跡で発見されたそうです。 |
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資料によると、弥生時代に入り極端に漆工作物の質が落ち、またそれまで東北・関東に多く出土された漆工作物が激減するとある。この訳は、一つには、自然環境が弥生寒冷期に入り生態系が変わることで漆が採取し辛くなったことと、加えて漆工作物が特別階級のものから一般の人々にも使われるようになったためと考えられる。それに加えて漆加工物そのものが保存の良い状態で発掘されることが難しいこともあって、資料が検証する上で乏し過ぎることもあげられるのではないかと思われる そして、弥生寒冷期による自然環境の変化によって、東北・関東地方から漆加工物は激減し一部接着剤として利用されるくらいになり、特に装飾的な効果をねらった利用はほとんどなくなってゆく。代わって西日本が盛んに漆利用をするようになる。この様な変化を検証するには、漆加工物の遺物の出土が陶器に比べ極端に少ないため、その検証はなかなか難しい。 |
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資料『漆の考古学』 で一番僕が驚いたのは、縄文晩期とはいえ、漆を漉すために使った編布(あんぎん)の存在だ。数千年も前に「漆を漉す」ということに気付き漆の塗膜の質を上げていたという事実にはただ驚嘆するばかり。 さて、ちょっと長くなってしまいました。この続きは改めて「漆の考古学」というタイトルで詳しく触れてみたいと思います。 |
<漆の物理的性質> 漆の塗布面にゴミが 付くと、小さなゴミであっても、そのゴミに漆が吸着されるので乾いたときには5倍の大きさのブツとなって表面に残ってしまう。従って「漉す」という工程は非常に重要になる。 |
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