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先日アップされた、お馴染み「常滑レポート」の「過剰なるものども」でも晴鳶堂殿が触れている、最近とみに目立つと言われる女性の”ある”表現だが、それは、何とも生臭いというか、ストレートというか、何しろ人間が持つ生な感情を、そのまま出してくるという、われわれ男性からするともうちょっと奥ゆかしく隠喩を経て表現へと至る工程があってもいいんじゃないか・・・とつい突っ込みたくなる作品になっている。



いや、その表現がダメだ、レベルが低い、ということではなく、よくもまあこんなにおどろおどろしい作品を人前にさらす勇気があるもんだと脱帽するのであります。その作品を前にして、何か照れちゃうというか、目を逸らしてしまうというか、直視するのを憚る感情を圧してその作品内容にアクセスするというのが正直なところです。そして、こういった姿勢をよしとする道筋を付けたのは、晴鳶堂殿が指摘するように日本では、草間弥生にその源流があるように思う。
 

「常滑レポート」より........................作:片山真理 『ハイヒール』
 
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2009 & 2010 Today's image index
この傾向は、僕の記憶だと既に80年代の初めにその兆候はあった。当時の美術の思潮は、ミニマリズムやコンセプチュアルアート、そして、日本では”もの派” といわれる、とても概念的な作品が潮が引くように退潮し、代わってニューペインティングと呼ばれた具象的な新表現主義が台頭してきた。残念ながら当時注目されていた若い女性作家は、ほぼ消えてしまった。その理由は、よく分らないが、恐らく男の目からして「作品になる前に表出してしまっている」ことに起因しているのかもしれない。



アートとは、もともとそう言うものなのかも知れない。なにも永続的に制作をし続けている者のみにアーティスティックな作品が作れるとは限らない。一発屋も充分にいい作品を残せるはずだ。



ここで言うパワフルな女性作家の作品ばかりでなく、他のジャンルの女性の作品にも同じ様な感想を持たされることが多い。たとえば今流行りの”お笑い芸人”の中で、何人かの女性の芸人がいるが、彼女らのネタにも美術界の女性のアーティストと同じ感想を持たされる。そう、正視できないというか、話を聞いていて照れちゃうというか、一見すると男から見て「未だ作品になってないじゃん」という段階で野放図にも(こんな言い方をすると叱られそうですが;;)人前に出す事に躊躇いがないというか、節操ないというか、ストレートに出してくる。でも、その分もの凄く正直に感ずることも多い。



ハカセ(晴鳶堂殿のことです)曰く、片山真理さんの作品は、文句なく図抜けて断トツ素晴らしかった・・・多分僕も現場で同じ様な感想を持ったと思う。
どうして女性が、こういった作風、つまり匂いとか、生理とか、呼吸とか、心臓の拍動とかのような、人が人である前に生物として生きている原初的な様々な有り様を、何のバイアスも掛けずストレートに表現することが可能なのかは詳細には説明できない。今のところ、ただ圧倒されるだけだ。そして、閉塞感が充満している今の日本社会の中にあって、彼女らの表現がある突破口になるのでは・・といった男達の狡い願いも重なっている様に思えたりする。



男という有り様は、哀しいもので、自分の発言や表現に、どうしても他者の目というか世の中の規範というか、コモンセンスというバイアスを無意識に掛けているように思う。それ故、いまそれじゃ埒があかないというか、新たな出口が見えてこない、見出せっこないと素朴に気付かれてしまう。



僕が今でも鮮明に思い出す、男女の感情の出し方を象徴する出来事があった。1985年に起きた日本航空123便墜落事故だ。死期が迫った乗客は、おのおの恋人や友人、そして、自分の家族にあて遺書に代わるメッセージを遺した。その内容には、歴然とした男女差があったとされている。

男性は、もの凄く冷静に、その場の状況や心境を文字としてメモに遺し、女性は、怖い!助けて!などもの凄く直接的な表現をメモしたという。男は死ぬ間際まで気取っているというか、格好付けているというか、個的な視線以外のもう一つの視線(コモンセンス等)を引きずっている哀しい存在だ。
 
 
こんな話もある、自動車事故で正面衝突した場合、男はハンドルをしっかり握って最後まで正面を見据えているが、女はハンドルの下に隠れて自分を守ろうとする。

こんな話ばかりすると上野千鶴子に叱られそうだが、ボーヴォワールじゃないが、女は女として生まれる訳ではなく女に”なる”つまり、女になるべく社会的に刷り込まれる、同じように男は、男として振る舞うことを社会的に刷り込まれているということを言いたいわけです。よって死に際や事故など、極限状態での振る舞いは自然と違ってしまうのも確かなのでは。。



僕自身、以前まかり間違えればあの世行きの事故にでっくわしたことがある。20年ほど前だろうか、生まれて初めて地方での個展のため愛媛は松山を目指し東名を飛ばしていたときのこと・・・・



追い越し車線を100km/h位で走行していたところ、スッと目の前に荷を載せていないトラックが車線変更して入ってきた。しばらくそのトラックの後ろを付いて走行していたところ、妙に左右に蛇行するような変な走りをするので、何か変だな~っと思っていたところ、ゴン!と何かがフロントガラスに当り、見る見るうちに全面が真っ白になった。



今思い返すと、ほんの20秒足らずの出来事なのだが、異物がフロントガラスに当り、チリチリチリっと蜘蛛の巣が張るように細かなネット状にフロントガラス全面にひびが入り、前方が視界不能となるや否や、先ずルームミラーで後方の後続車の有無を確認し、成るべく早く車を路肩に寄せたいので、左右のサイドミラーで後続車を確認し、その後ハンドルをゆっくり切り走行車線に車線変更し、そしておもむろに車を路肩に止めた。



多分20秒もなかった出来事だと思うのだが、その時流れていた時間は、もの凄くゆっくりとしていて、優に5分は掛かったように、まるで走馬燈のように個々の処置をはっきりと記憶しているのだ。僕ほど小心で臆病な人間はいないと自負?しているにも拘わらず、その時の事故対応は、氷のようにクールで冷静だった。
 

当時の愛車 WV Type Ⅱ
 
何か女性の悪口を言っている様に思えるかも知れませんが、実はそうではありません。ひれ伏すまではいきませんが、ちょっと敵わないな~といった正直な感情であります。あのユーミンでさえ、ちょっとヤバイ感情を堂々と歌詞にしたりしています。もちろん名曲です。
   

 
まちぶせ                  作詞:荒井由実


夕暮れの街角 のぞいた喫茶店

微笑み見つめ合う 見覚えある二人

あのこが急になぜか きれいになったのは

あなたとこんなふうに 会ってるからなのね

好きだったのよあなた 胸の奥でずっと

もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる


気のないそぶりして 仲間に加わった

テーブルをはさんで あなたを熱く見た



あのこがふられたと 噂にきいたけど

わたしは自分から 云いよったりしない

別の人がくれた ラヴ・レター見せたり

偶然をよそおい 帰り道で待つわ

好きだったのよあなた 胸の奥でずっと

もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる



好きだったのよあなた 胸の奥でずっと

もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる

 
翳りゆく部屋              作詞:荒井由実


窓辺に置いた椅子にもたれ

あなたは夕陽見てた

なげやりな別れの気配を

横顔に漂わせ



二人の言葉はあてもなく
 
過ぎた日々をさまよう

ふりむけばドアの隙間から

宵闇が しのび込む



どんな運命が愛を遠ざけたの

輝きはもどらない

わたしが今死んでも



ランプを灯せば街は沈み

窓には部屋が映る

冷たい壁に耳をあてて

靴音を追いかけた



どんな運命が愛を遠ざけたの

輝きはもどらない

わたしが今死んでも



どんな運命が愛を遠ざけたの

輝きはもどらない

わたしが今死んでも
 
こんな格好わりーセリフ、たとえそう思っていても口には出せません。まっ、近年ようやく槇原 敬之の様に、男でも女々しさを隠さず歌詞にすることを良しとする空気も出て来ましたが・・・・・・。



生な感情を、隠さず、何かに置き換えることもなくストレートに表現へと持っていってしまう潔さは、その内容がいくら女々しくても、男らしいというか何とも雄々しいのであります。僕ら男には真似の出来ない何かです。ややこしい世の中を救えるのは、多少大ざっぱでも、こういったストレートさなのかも知れません。宮崎駿さんは、こういったことを先取りして、いつも主人公は女の子にしているのではと思わざる得ません。今日もTVで『となりのトトロ』をやっていました。以前より増して、涙が出そうなシーンが、確実に多くなっている自分に驚いています。



それにしても、この差はどこから来るのでしょうか。。



そもそも、女々しいという感情を「女々しい」という漢字に充てたのは男なので、どう考えても男の方が女々しいに決まっています。古代、女性は漢字を使うことは許されていなかった訳で、そういった経緯からして女性からすれば濡れ衣でしょう。

 この間、TV(CATV「ニュースの深層」)を観ていたら歌人・枡野浩一がゲストで出演していて、そこでいくつかの短歌が紹介されていました。おもしろいな~と思って、早速 Amazon で購入。その世界では名が知れているようだが、未だ未だメジャーにはなっていなそうな場合、Amazon で検索すると古本で60円から買えてしまう。ひどい時には、送料が250円で本代が1円だったりする。古本に関しては良い時代になったと思う。一昔前なら探し出すだけで相当な労力を要したはず。
 

そもそも再販制度が出版界自身の足を引っ張っているのに、未だ意地を張っている。お陰で日本では電子ブックが普及しない。こんなに新しい消費者を開拓できる業態は今他に無いのに。。愚かだ。
 

「トデミふぁんくしょんドロップ」枡野浩一著
 
そう、その枡野さんの歌集その他を5冊ほど手に入れましたが(1500円程度で済んでしまった;;)これがけっこう女々しい。たとえば・・・・・



気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく言葉を胸に刻んで



この僕を捨てる覚悟でフライドチキンショップの席を立ち上がる君



基本シニカルでペスミスティックですが、それでも、どこか琴線に触れるというか好い歌もたくさんありました。



きょうはラの音でくしゃみをしたいから
              
             「ドレミふぁんくしょんドロップ」は青




「じゃあまた」と笑顔で別れ

             五秒後に真顔に戻るための筋肉




「元気です」

そう書いてみて

無理してる自分がいやで

つけくわえた「か?」
  
   
でも、よく考えると表現とは、言葉や絵の具、そして音に、こちらの気持ちを置き換える行為なので、元もとストレートな表現にはなりにくい。そして、どこか他者を信頼しているというか、自分の発する言葉が他の人に伝わるという幻想がなければストレートな表現をしようとは思わない。さもなくば他人に伝わろうが、伝わらなかろうがお構いなしで、開き直って独り言を言うように発するしかない。そう割り切るところが潔く感ずる所以かも知れない。その意味で、僕はかなり女々しい。それは、伝わりっこないと思う無意識の中でいろいろ発言しているからだ。



こういった下地があるから、おどろおどろしい表現を前にして戸惑う自分がいて、そういった表現をたくさん発信する女性に圧倒されるのでしょうか。


もちろん、男でもけっこうおどろおどろしい表現をする作り手もいます。ヨーゼフ・ボイスなどはその典型かも知れません。たとえば彼の作品の中には、分厚いフエルト生地の上にチーズを積んで放置したのもとか、アッサンブラージュのようなジャンクアートのような「ウッと」くるものも多いです。でも、どこか男的というか概念的で理屈っぽいのです。材質はストレートですが、どうしても表現は概念的です。
 

by Joseph Beuys
 
もしかすると、おどろおどろしい表現を、どこかで自制する分岐点が男にはあったのかも知れません。あの縄文土器は、果して男女どちらが作っていたのでしょうか。。案外あのエネルギッシュで、ある意味おどろおどろしい表現を、男が担っていたのかも知れません。



男女の身体的な差が、その社会的な背景で、それぞれの行動規範を規定することは、歴史を観れば充分理解出来ます。筋肉の質が、女より瞬発性を備えていたことによって男は狩りや戦を担い、そこでの価値観は、その精神的な素因とは別に勇猛果敢で雄々しくあることを要求されます。それが結局、その時代の倫理観へと導かれるのはとても自然です。やがてそうした観念は無意識へと下りて行き常識を形作ります。そして今、僕らは後生大事に引き継いできた、最早陳腐になりかけている男性観で女性の表現を見るにつけ、そのエネルギッシュさとストレートさに圧倒され、その表舞台から一部退却し始めています。
 
あの大和絵は女性が描いたのではと言う説があります。あの野放図で大胆な構成は女じゃなければ画けっこないというのがその主旨です。でも満更奇説と言い切れないかも知れません。というのも当時源氏物語を書いたのは、正真正銘の女性紫式部です。多分当時の男は、唐物と言われた中国伝来の国画を手本として、それを模したものを描いていたと思われます。



大和絵の作風は、当時のインテリが真似た中国の国画的要素とはかけ離れているところも、これを女性が描いたとする根拠にもなります。当時、世界最先端の文化を誇る中国の影響があまり見られない作風が、大和絵の特徴ですから、それを女性の仕事と解釈するのは理に適っています。


あの大胆な構図、ベタで豊かな色づかい、中国の絵画が最上級のものと考えていた輩が描いたものとはとても思えません。 
 
   
晴鳶堂殿の言うように「過剰なる表現」の担い手が、今女性であるということは、ある必然から来ていることを、これからきちっと読み解いていかなければならないと思います。そして、今の時点で「過剰」と思えるものが、実は特別なものではなく、本来人間は「過剰」への志向をずっと持ち続けて今日まで来ているようにも思えます。



先日、NHKスペシャル「知られざる大英博物館」が放映されていました。それによると、ギリシャのシンボルともいえるアクロポリスの丘に建つパルテノン神殿は、元もと真っ白い大理石の表面をカラフルな色彩で彩られ、そこにある石像も同じように豊かな装飾で彩られていたといいます。

ギリシャ=白い大理石というイメージは、近世に作られたもので、これが一人歩きしたことで無垢の大理石が、ギリシャの建造物や石像のオリジナルのスタイルだったというイメージが定着珍重され、果ては古美術商が、遺跡から発掘された未だ豊富な色を纏った石造物を特殊な工具を使ってその塗料を掻き落とし、売りやすいように無垢の大理石の肌をわざと出した、つまりギリシャの歴史を捏造したということの様です。
    
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これはギリシャの遺物だけでなく、僕ら日本人の持つ古代のイメージも、後から造られた物語で歪曲されていたりすることはよくあります。あの薬師寺や法隆寺の五重塔が、再建されたり修復されたりした直後に観た時にもつ違和感というか興醒めする感じは、僕らの持つイメージが時を経て古色で侘び寂を感ずる遺物がイメージとして定着しているため、極彩色に彩られて目の前に立ち現れるオリジナルの建造物の再現に、ある拒絶感をもってしまいます。元々あったそれらの建造物のコンセプトを離れ、時の経過そのものの味を良しとしている感じ方がイメージとして定着し、オリジナルをも規定したりさえします。現に昨年奈良を訪れた際、薬師寺に寄ったが、その時カメラには、修復後の極彩色の塔は全く写っていません。無意識に古都として絵にならないと決め込んでいる観さえあります。









 
(左の塔が再建されたもの)
ギリシャのパルテノン神殿や日本の古寺の建造物が、元は驚くほどの極彩色だったという事実からして、僕ら人間は元々”過剰なる存在”のようです。こういった歴史的建造物を建立することに従事したのは、ずっと男でした。様々な歴史遺産に直接関わった男の歴史が、分厚く堆積して今に至っていますが、ここに来て、その表舞台に多くの女性が台頭してきたという事実があります。そのことが、あまり見たことのない光景として目に映ったときに、今まであった約束事を超えて表現されていることに特段「過剰なる表現」として感ずるのではないかと思います。

そして、これからも、それまで男子が担っていた領域に、女子が積極的に参入することは時代の要請で、誰にも止めることは出来ないと思います。そういった光景に立ち会う度に、僕ら男子は戸惑い驚異を感じ続けるのだと思われます。


「おどろおどろしい」とは、非日常の真実の有り様をストレートに出す事。当分僕ら男には敵いっこない生々しい表現が、元気な女性から表出され続けることと思います。ここは、篤と拝見させて頂き自分の表現にも積極的に取り入れられたらと願っております。 



あっ、そうそう、さっき話した東名での事故の続きがありました。路肩に車を止めたあと、蜘蛛の巣状になったフロントガラスを軍手で叩き落とし、砕けたガラス粒を片づけてから両ドアのウィンドウを締め切り、携帯した服を着られるだけ着て(確か11月でした)90km/h位で走行して無事何とか松山に着きました。途中、何とも悔しいので二度ほど給油する際、接客のため近付いてくるスタンドのお兄さんに「お願いしま~す」とキーをフロントウィンドウから差し出すと「ワッ!」とのけ反ってビックリしていました。それくらいしか楽しみはなかったので・・・スタンドのお兄さんごめんなさ~い。



当時東名では、後続車にボルトを投げてフロントガラスを割る悪質な悪戯というか犯罪が流行っていました。とっぽく目立つ車に乗っていたので狙われたものと思いますが、大事に至らずに済み不幸中の幸。事故という事故は、生涯これ位でしょうか。


今日は梅雨の晴れ間の猛暑、TV報道では高温注意報なる、あまり聞き慣れない注意報が出て熱中症にならないようにと注意喚起しています。これで梅雨明けにスライドする予感もしますが、皆様に於かれましては、充分留意なさって寝冷えなどなさいませんよう。

では、では。