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ひき続き 「漆の考古学Ⅱ
2020/10/12 加筆修正)もご覧下さい。更に縄文人と漆の結びつきが深まります。

 ※:2020/10/12 現在世界最古の漆工作物は、列島最古のウルシ材である福井県鳥浜貝塚出土木の枝で約12600年前と特定されています。
本来なら essay の欄で書くのが適当なのですが、そうすると意外と気構えて読まなくては・・・・といった気負いが出てしまうようで読む人か読まない・・・なので、あまり漆に興味のない方にも読みやすくなるよう、この Today's image で扱うことにしました。



そう、このhttp://urushi-art.net も21年目に入り掲載したファイルも1万を優に越しています。それなのにです、「漆」と銘打って漆のことに触れたコラムはゼロだとおもいます。これには訳があります。
 それは今まで漆の遺物で一番年代が古いものは中国で発掘された約7000年前のものとされていました。従って漆の木は日本には自生してはおらず、お隣中国から伝わって植林されたものと考古学的には考えられてきました。けれども上の冊子(地底の森ミュージアム発刊)にも紹介されているように、ここ数年の発掘調査から約9000前の縄文時代の漆製品が見つかり、今までの漆に纏わる歴史を書き換えなければならなくなりました。

※:現在、世界最古の漆工作物は、列島最古のウルシ材である福井県鳥浜貝塚出土木の枝で約12600年前と特定されています。2020/10/12 加筆修正)

 
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2020/10/12 漆の考古学
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 縄文時代に作られた漆の加工品は、下の画像にもあるような質の高いものが多く、とても自生した野生の漆の木だけでまかなったとは考えづらく、おそらく人の手によって栽培管理されていただろうと推測するほうが自然ではないかと考えられるようになりました。

正しく日本のDNA と言ってもいいくらい「うるし」は日本そのものでもあります。こんなにも分厚く重い歴史のある世界なので、必然的に沢山のいかがわしい神話にも溢れています。それはまるで「これは金で出来ています」とか「これは絹製です」といったブランドに乗って「これは漆です」ということだけでものの良さを説得させようとする姿勢が、漆の世界では多く見られるように思います。僕自身は若い頃から、自分で作ったものに自信がないから材質に寄りかかるのだ・・・・と厳しく自分に言い聞かせて今日まで来ています。なので滔滔と漆の良さをまくし立てる作り手を前にすると「嘘くさいな~」と反射的に感じてしまいます。このことが、「うるし」に触れずにきた理由です。



でも、今回この冊子「漆の考古学」に出会い、ここは素直に「漆はいい」「漆は素晴らしい」と言ってもいいのでは・・・・と転向?しました。

縄文ポシェットと中から出て来た胡桃
 
イグサ科の植物で編まれ漆加工された、大きさ約13センチメ-トルの小ぶりでモダンなポシェット
その中に割れたクルミが1個入ったまま三内丸山遺跡で発見されたそうです。 
 
 
そもそも陶芸とは違って、うるしが日本を代表する素材であるにもかかわらず、その新しい資料が殆ど世に出ません。その訳はいくつかありますが、ひとつは漆器そのものがプラスチックに取って代わられ、普段の日本の生活空間から消えてしまい、今や特殊な場でしか使われなくなってしまったことです。そのことが益々漆への関心を下げるという負のスパイラルを生んでしまいました。その流れから出版社は、読者の絶対数の少ないことを予測して漆に関する書籍を刊行するリスクを避けることになります。それが漆に関する資料が少ない主な理由だと思われます。


紹介した冊子「漆の考古学」は、そもそも発刊元がミュージアムなので、その出版物がペイできることを出版社並に計算に入れずに済みます。そのことが勇気を持って漆の刊行物を出すことを可能にした所以なのではないでしょうか。



この冊子によって初めて知ったことがいくつもあります。それは(ここからは地底の森ミュージアム で触れた部分を一部転用します)。



漆そのものは植物ではありますが、乾いた漆そのものは土中に埋まっている限りにおいて、数千年を経てもあまり変質することなく遺ります。漆工芸品は、木胎や植物繊維を編んだもの等が多いので、漆をのせている木胎や竹などが数千年単位の時を経ることで溶解してしまい、結局単体の器物として遺ることは幸運な条件(湿地帯などの水分の多い寒冷地など)が揃わないと難しい。従って、数千年単位での考古学的な”物証”が揃わず、その起源はもちろん、歴史的変遷も先ず検証することが難しいと思われます。



発掘という作業を進めるには、それを支える人的資源は勿論、経済的サポートも必要なので、それを進める自治体や国などがある程度豊かでないと無残にも潰され埋め立てられ、その上にビルが建ったりしてしまいます。三内丸山遺跡は、2000年に国特別史跡に指定されたとあるのでバブルが弾けていたとは言え、未だ日本が豊かだと思われていたこともあり、発掘事業は積極的に進められたことは幸運でした。



そして地底の森ミュージアム 冊子『漆の考古学』によると、ここにきて縄文時代の漆工芸品が保存の状態も良く発掘されているとあります。
資料によると、弥生時代に入り極端に漆工作物の質が落ち、またそれまで東北・関東に多く出土された漆工作物が激減するとあります。この訳は、一つには、自然環境が弥生寒冷期に入り生態系が変わることで漆が採取し辛くなったことと、加えて漆工作物が特権階級のものから一般の人々にも使われるようになったためと考えられます。それに加えて漆加工物そのものが保存の良い状態で発掘されることが難しいこともあって、資料が検証する上で乏し過ぎることもあげられるのではないかと思われます



そして、弥生寒冷期による自然環境の変化によって、東北・関東地方から漆加工物は激減し一部接着剤として利用されるくらいになり、特に装飾的な効果をねらった利用はほとんどなくなってゆき、代わって西日本が盛んに漆を利用するようになります。この様な変化を検証するには、漆加工物の遺物の出土が陶器に比べ極端に少ないため、その検証はなかなか難しいといえます。



資料『漆の考古学』 で一番僕が驚いたのは、縄文晩期とはいえ、漆を漉すために使った編布(あんぎん)の存在です。数千年も前に「漆を漉す」ということに気付き漆の塗膜の質を上げていたという事実にはただ驚嘆するばかりです。









 
以前、「常滑レポート」でお馴染みの中野さんと彼の知己を訪ねて、お隣の鎌倉考古学研究所の前身鎌倉考古で鎌倉時代の遺物を見せて頂いた事があります。確か鎌倉消防署が移転するので元の場所を発掘調査したときに出土した漆器類は殆ど水に浸かった状態で保存されていました。空気にさらすと同時に椀などの木胎はぐずぐずに崩れ原型を失ってしまいます。漆器は水中にある限りその光沢を失うことはありません。でも一旦水から出してしまうと瞬時に漆独特の光沢を失うと言います。ただ、木胎は朽ち果てても漆の皮膜そのものは遺ります。それは鎌倉当時の漆の蓋紙に漆が染み入っていたことで腐ることなく遺っていることでも証明されています。漆という塗料は、その様に経年劣化が少なく塗料としてもとても優れています(但し紫外線には滅法弱いのですが)。



上の画像は、水に強い漆の性質を活かした坑木で、東村山市の下宅部遺跡から出土された河川整備に使われたであろう漆の木です。そこには漆の樹液を掻き取るためにつけられた搔きあとが残されています。ということは、当時から今と変わらない採取法をとっていたということになり、おそらく漆の木を栽培管理していたであろうことも充分考えられます。



漆搔きで採れる樹液の量はほんの僅かですから、たいせつに無駄なく用途にあった容器に移さなくてはならず、「漆搔き」用に作られた土器の縁にはべったりと作業の跡が残っているものがいくつも発掘されていますが、これとは別に貯蔵用に使われたであろう土器には、縁には漆が付着がなく綺麗なまま発掘されています。この様な土器から推察できるのは、微量しか採れない漆を搔き、更にそれを貯蔵していたということで彼らがウルシを栽培・管理していただろうということです。


































縄文人の指紋
以前、「縄文人の指紋は渦巻き紋」・・・と聞いたことがあります。しかし、上の画像は明らかに渦巻きではなく締状紋にみえます。そこでネットでいろいろ検索してみると、どうやら「縄文人の指紋は締状紋」が定説のようです。上の画像もそれを証明しています。






 弓 状 紋  蹄 状 紋  渦 状 紋
 日本人の約10%  日本人の約40%  日本人の約50%
 
ここでちょっとブレイク...........


現在日本人の由来については考古学者の金関丈夫氏の「弥生人は朝鮮半島から新しい文化をたずさえて北九州・山口に渡来した」という説が有力とされている。つまり日本人のベースは縄文人で、そこへ弥生人が混じって現在の日本人が形成されたという事なんだそうだ。

また、縄文人と弥生人には決定的な性格の差があるという説がある。約1万年にわたる縄文時代から出土した人骨には、争いごとから死亡したものが少ない。また、障害を持つと思われる人骨の中にも30歳以上の命を保ったことがわかるものがあり、縄文人の温和で優しい性質をうかがい知ることが出来る。弥生時代になると戦死した人骨の数は急増する。縄文時代にはなかった戦争が弥生時代に始まったのだ。このことから大陸からやってきた弥生人は縄文人に比べ好戦的であるという事がいえる。
縄文人の血が濃いとされている離島の北海道、沖縄の人にはなんとなく温和な印象があるのは上記のような理由からなんだろうか。(モノ太郎の雑学コラムより)



自分の指紋を確認したところ(今湿疹で見づらいのですが;;;)左右の親指が渦状紋で他の指は全て蹄 状紋でした。


ちなみに、あなたの縄文度はいくつですか?


僕は 16/2 0 で可なり高いです。→ http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2006/12/000050.html で調べられますので是非♪
 

ウルシのパレット
 
漆の加工品が盛んに作られていた縄文時代では、特に赤色顔料(主に弁柄)を練り込み朱漆として使われていました。その顔料(自然の鉱物を粉砕したもの)を擂りつぶす道具として使われた石と土器が上の画像です。顔料を練り込んだ朱漆は再び編布で漉され様々な器物に塗布されたものと思われます。



加飾/装飾は縄文時代のキーワードですが、漆についても塗料として使われていたことは勿論ですが、朱を使って大胆な加飾が加えられたものが多く遺っています。
 
   
冊子「漆の考古学」の中で個人的に惹き付けられた資料は、下の画像に載せた木製品です。それには鉄器などなかった時代にもかかわらず、しっかりとした加工が施されています。僕は鎌倉彫出身なので”彫刻的なるもの”にどうしても目がいきます。そこにある縄文人の表現内容は至って高度で、浮き彫りを経験したものには「ちょっと凄いな~」と思わせるものがあります。





 
把部スケッチ
 
 まるで根來塗りのような風合いの赤色漆塗りの木製容器ですが、把部をよく見るととても知的で高度な加工があります。それは視線の流れが上下で交差するように意図されて彫刻が施されています。時代は縄を使った装飾に長けていたので「縄文時代」と総称されるわけですが、そういった状況もあって”紐の交差”や”紐の結び”などのもつ美しさを深く理解していた人たちの表現だと思います。上から下、続けて下から上と流動的に交差する加飾は、彫刻としても高度な表現です。  
 







作:アレクサンダー・アーキペンコ
 
 上の画像は、僕が鎌倉彫の修業時代にはまったアレクサンダー・アーキペンコの作品です。モダニズムそしてキュウビズムのはしりともいえる作品で、未だそれまで主流だった具象を引きずっていますが、これから正に抽象へとまっしぐらに進む時代の先駆けとなった表現です。


絵画においても彫刻においても”交差”とか”ねじれ”は、2次元空間(平面)そして3次元空間(立体)で、視線が、それこそ交差しねじれるので、作り手にとってはとても魅力的な題材になります。そこでは、エネルギーが集中し溢れ出るように感じます。ロダンなどは、具象でこのことを手掛けたアーティストですが、時代は下ってアレクサンダー・アーキペンコのようなキュービズムの作家達は、同じエネルギーを抽象表現で表出しています。



所詮絵画や彫刻はイリュージョン(錯覚)なので、2次元の平面には遠近法という約束事があり、3次元の彫刻にはそれぞれの時代に制約された決まり事(ゲシュタルト)があります。あくまでも約束事を基盤に表現を成立させているので、その約束事が成立しない、あるいは矛盾する”場所”が実は「ねじれ」や「交差」にはあります。



上の「把部のスケッチ」をご覧頂くと分かると思いますが、一平面に鉛筆で曲線の軌跡を残していますが、当たり前ですが、この軌跡は実際に紙面を抜けて上下にクロスしているわけではありません。一つの曲線をもう一つの曲線が遮り、見えない先の延長線上に再び曲線が続いてる様に描くだけで上下に交差するように僕らにはみえることになっています。その交差点に矛盾と驚きが生まれます。作り手や見る側もここに魅力を感じるのは、眼で生きている場面が多い僕ら人間には、ある意味自然なことのように思います。



構造的には、全く同じ次元の表現を、数千年も前の縄文人が既にトライしていたということは驚くべき事実ですが、逆に言えば千年単位では、人の表現内容とレベルはさして変わらないということでもあるかもしれません。
 
   
ウルシを語ると縄文人に辿り着いてしまうのは、縄文時代の人びとが、巧みにウルシを扱っていたことにつきます。

ウルシを使った表現は、概略的にあげると以下のようになります。

●塗料としての使用・・・・・椀など漆器全般

●加飾としての使用(塗料としての使用を含む)・・・・・椀など漆器全般

●接着剤/修正剤としての利用・・・・・蒔絵・螺鈿などの加飾



上の画像には、僕ら漆を扱うものがコクソと呼ぶ、木粉と糊ウルシを混ぜて作る謂わばパテのような修正剤による補修作業と同じ工程跡がみられます。すでに現在行われている漆工技術が縄文時代にあったことを裏付けています。
 
 このページは、多くの方に閲覧頂いています。感謝

ひき続き 「漆の考古学Ⅱ」もご覧下さい。更に縄文人と漆の結びつきが深まります。

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ウルシ を巧みに使ったのが縄文人ですが、どういった訳か弥生人は、縄文人ほどウルシを使わなかったことが発掘跡から出る遺物からも分かります。それには事情があって、気候の変化でウルシの栽培管理が難しくなったとも言えますし、稲作を取り入れることで富の蓄積から階級が生まれ、社会の運営に”効率”を組み入れざるを得ない状況が生まれたのかも知れません(漆工は古代と言えども手間が掛かりますから)。
縄文時代には少なかった争いごとが、弥生時代には激増するのもそういった事情があったためともいえそうです。資質として弥生人が好戦的だったと単純には言えそうにありません。



上の画像は、新潟県胎内市の遺跡で発掘された漆塗りの木製容器です。先程の冊子によると、中にのこっていた土を詳しく分析したところ、ニワトコやサルナシ・ヤマグワなど16種類の種子・果実が入っていたことがわかっています。注ぎ口の形体から言って果実酒が入っていた可能性が大きかったのではと考えられています。
 
酒やタバコなのど嗜好物は、人が社会化したと同時に個人が疎外され、その結果生まれた心の消耗部を埋めるためにどうしても必要だった・・・というのが僕の持論です。

縄文人は、比較的平和でヒューマンな社会を築いていたのではと言われていますが、規模が小さかったとは言え縄文時代も、人は複数で社会を構成していた訳で僕らと同じ様な悩みも多かったのかも知れません。酒でも吞まなきゃやってられね~よ・・・という場面もたくさんあったのでしょう。



以上紹介した内容以外に沢山の資料が「漆の考古学」には掲載されています。このところウルシは陶と違ってさっぱり人気がないので発刊される漆関係の出版物はまず期待されません。送料¥80(正価¥600)で送って頂けるので、漆の関係者の方は勿論、仕事以外でウルシに興味をお持ちの方々に是非お薦めしたいところです。他にも「送りの考古学」という、縄文時代の埋葬法から分かる古代人の社会やその生態系、そして人びとの価値観などを知るにはとても貴重な資料もあります(これは現地に行かないと手に入らないようです)。

連絡先はこちら→ 地底の森ミュージアム 刊行物            地底の森ミュージアム

他にも紹介したい内容がたくさんありますが長くなるので、またあらためて触れられたらと思います。。

冊子「漆の考古学」ですが、このページでご紹介したこともあってか、今は完売につき絶版となっています。是非電子版を刊行なさるよう皆様からもリクエストをお願いします。