瑛太
 
重たい、とても重たいドラマだった。


でも、ここまで深く感動したのは『ニューシネマパラダイス』以来。

「それでも、生きてゆく」(フジTV)
...........少年A、そうあの酒鬼薔薇聖斗を下敷きにしてドラマ化したもの。難しいテーマだと思う。



世の中、3.11以来の沈滞ムードで沈んでいる中、案の定視聴率は初回と最終回を除き一桁台。この時期、暗く重たいドラマは毎日を元気にしてくれないので皆避ける。仕方がない。その意味では、こんなに素晴らしいドラマがこの時期に放映されたことはもったいなかった気がする。
 我が家は晩飯が遅いので、ちょうどこのドラマを観ながら食事となる。もちろんこの時間帯はドラマ好きのかみさんにチャンネル権がある。なのでドラマが始まった当初は見るともなしに見ていた・・・・・が満島ひかりの鬼気迫る演技に惹き込まれ最終回までしっかり観てしまった。



この http://urushi-art.net も、ここにきて大分盛り返してきたが、震災以降ガクンとアクセス数は落ちた。みなさんそれどころじゃなかったのでしょう。当然と言えば当然で、ここ神奈川でも毎日放射能が降っていたのですから。
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満島ひかり
 
僕はドラマを観るとき(ほとんど観ないが)、それがサスペンスものだったりすると、だいたい加害者側にたつ。まず被害者の視線で物語の流れに沿うことはない。それは恐らく物心つく頃からずっと”いじめっ子”だったからだと思う。つまり事件を起こす方の側に自己像がある。小学校・中学校、そして高校と、当時の同級生に「あいつのことどう思ってた.....」って僕のことを聞いたとしたら、即行「嫌な奴」か「なんか面白い奴」のどちらか真っ二つに分かれると思う。



何がきっかけだったか、たぶん大学入試に失敗して浪人することになって、どうしても自分と向き合わなければならない羽目になったからか、いきなりそれまで全く手に取ったこともなかった人生論(確か最初に読んだのが亀井勝一郎の「青春論」だったか)や思想書を来る日も来る日も読み耽るようになった。そして、それまでこれといってどこにも向いていなかった己の視線が、まるでブラックホールに吸い込まれる光のように”自分”に向き内省し始める。そうなると、それまで漠然と「結構いい奴だ」位に思っていた自己像が音をたてて瓦解し、過去の自分のやらかした「人を傷つけたこと」がフラッシュバックし始めた。


................ということは、そうした他者を傷つけたネガティブな行為を寸分違わず忘れずに記憶していたということになる。ここに人は何故人を傷つけるのか・・・・・・そして、「人を傷つける」ことと「人に傷つけられる」ことが、実は表裏一体の心のポジとネガの有り様であること、つまり人の心の構造を解き明かす鍵があるように思える。




こういったテーマになると、まず本棚から引っ張り出してくるのは、緑やピンクのマーカーで彩られた『心とは何か』(吉本隆明著)になる。これは僕にとってバイブルのようなポジションにある書物だ。そして、「幼年論」「時代病」「ひきこもれ」「家族のゆくえ」「13歳は二度あるか」が今横に積まれている。すべて吉本さんの著作だ。もちろん、ほかにも心に関して語られている優れた本はある。河合 隼雄や、ここ最近では引きこもりに関して深く掘り下げている斉藤環があげられるが、でも彼らの著作が人の心の無意識、そして原意識とでもいえる深い、深~いところまで届いているかといったら・・・・・・・・(もちろん好みですが)。
「それでも、生きてゆく」の最終回を見終わった日、ネットで「酒鬼薔薇聖斗」を検索してみた。


それは、少年Aという存在が生まれるにはある必然があるのでは・・・・というフレーズが浮かぶからだ。


子供がいじめをしたり、人を傷つけたりするのは乳幼児期に母親との接触にしくじっているから・・・・吉本さんはそう繰り返す。つまり子供を孕んだ母親が、夫婦の問題で悩んでいたり、家計のやりくりで不安を抱えていたりすると、その不安な心理は胎児に反映されるということ。


そんなこと言ったら、ほとんどすべての家族が何らかの問題を抱えているのだから、その当事者である母親は、すべてまともな子供を育てられないのでは・・・・と突っ込みを入れたくなる。



子供を育てきった親は、そのほとんどが大旨「もう少し上手く育てることが出来たのでは・・」、「あの時、ああしていれば・・・・」といった慚愧の念とも懺悔とも付かない、何とも情けないやり残した感を少なからずもつものだ。

僕が吉本さんの「少年少女の事件は親の問題」という指摘に突っ込みを入れたくなるのは、すべての親が完璧な育児をこなさなかったとしたら、この世に生まれ落ちたすべての子供達が何らかの傷を負って生まれ落ちると言うことをどう考えたらいいのか・・・・ということにどうしても引っかかるからだ。そして、すべての親は、そのまたすべての親のそのまた親の負のリソースを受けて育たざるを得ないということをどう引き受けたらいいのか.................



自分の親も少なからずその親から負の遺産を受け継いでいるわけだから、親になったときに必然的に負のリソースも引きずって親になる。そうやってすべての親は同じような構造をもって親になる。これは自然だ。そうだとしたら親から受けた負のリソースをどう処理すればいいのか・・・・それが子育ての本質になる。

(吉本さんとばななちゃん?.......「家族のゆくえ」より)
 
吉本さんは、つづける・・・・


「子供がどんな残虐な事件を起こそうと、それは親の責任だと、わたしはおもっている。子供に責任はない。」子供がいかに残酷に見えるようなこと・・・・・たとえば関西の「少年A」のような事件を起こしても、それは親の責任であると決めている。
 乳幼児期に親がこころを籠めてその子に接しなかったから、ああいう事件が起きたので、原因はその一点に尽きるはずだ。そのほかのことは枝葉末節にすぎない。したがってあの事件が起きたとき、「少年A」を罰してもまるで無効だ、もう遅い、と指摘した。
「少年A」の事件や佐世保の同級生殺害のような事は乳幼児期の母親ないし母親代理の問題で、それ以外のことは枝葉の問題にすぎない。そう決めている。極論して、そう決めてしまえば筋はかえってわかりやすくなるはずだ。



 ただ、「通り魔殺人」のような場合は別だが、加害者と被害者がお互いに知り合いで感情的な交流があったような場合は、一方的に加害者が悪いということにはならない。被害者のほうにも何らかの問題があったと考えるほうが自然だ。「問題」というのは、被害者のほうもこころが傷ついていたのではないか、という意味だ。被害に遭った子供のほうもどこかでこころが傷ついていた。それが加害者のこころの傷と擦れ合って事件にまで発展してしまったのではないか。その意味では、被害者の親が「加害者の親は自分たちに詫び状も出さない」といって怒るのも見当外れだとおもう。 




今あの事件を振り返って、「少年A」は、あの事件を起こす前に「だれでもよかった」と、見ず知らずの女の子に道を尋ねる振りをして金槌で殺傷している。少年Aは、こういった通り魔事件も重ねて起こしているところが問題を複雑にしている。


では、乳幼児期を過ぎてしまった子供が問題を抱えた場合、もはや不可逆的な育児期をどう取り戻したらいいのだろう.............
吉本さんの回答はこうだ・・・・・・



・・・こうした事件に対して、少なくとも自分の家族関係のなかにいる子供が起こした事件だから、両親がそれに対してすべて責任を帰せられるものというべきだとおもう。小さいころ可愛がらなかったのがいけなかったのだとか、乳幼児期に愛情をもって接することがなかったからこうなったのだろうと、まずはそういう認識をもつべきだ。

 じっさい、同級生を刺してしまったというような事件は、親の問題だと思う。いろいろな事情はあるだろう。小さいころ本気になってかまってやることができなかったなあとか、あるいは逆に、放っておけばいいところで過剰に干渉したなと、そういうことがあったにちがいないとおもえる。親がいけないといいたいのではなく、そういう事態に立ち至ってしまったことをふくめて、それは親が人格失格だというほかないといいたいのだ。


・・・・・・・・・・・(中略)
自分の子供が加害者になってしまった場合は、どうしたらいいのか。
 問題の根源は乳幼児期の親子の接し方にあって、そこですでに性格形成がなされてしまっているから、事件が起きた時点でどうこうしようとしてももう遅い。そうだとしたら、ここは親のほうもよほど気合いを入れて子供と真正面から向き合わなければいけないとおもえる。これは「少年A」の事件が起ったときに発言したことだが、加害者の親はその子といっしょに少年院で暮らすぐらいのことはしなければ取り返しはつかないとおもえる。四六時中その子と一緒にいて、乳幼児期にしそこなったことを回復するようにするしか手はない。これが基本的な考え方になる。




親というものは因果な稼業で、こんなことを完璧にこなせる奴がいたら会ってみたいと思うくらいだ。いっそ国家試験に通ったものしか子供を産んで育ててはならない!という法律でもつくらないかぎり全世界中親としては失格な夫婦が量産されるばかりだと思う。

(ご夫妻?)
 
それじゃ~「育児被害者」としての子供は救われないのかというと、そのダメージがある閾値(たぶんそれは測定不可能だろう)を越さない限り『自己慰安』という概念で生来の負の遺産を超えられるのでは・・と吉本さんは言う。


人間の生涯は大なり小なり願望どおりにはいかないようにできている。人には通じないようなイヤな努力をした経験はだれにでもあるとおもいたい。その一方では、そうした努力をどこかで解消したり、自分で自分のこころをなだめたりすることも必ずあるとおもえる。わたし流の言葉でいえば「自己慰安」ということになり、それが芸術の本源だとおもっている。


 自分のこころをなぐさめるとか自己慰安というと、なんだか利己的に聞えるかもしれないが、わたしが考えている「自己慰安」というのはもっと内省的で、同時に社会的な広がりをもった概念のことだ。フランスの哲学者のミシェル・フーコーという人は『性の歴史』の第三巻を『自己への配慮』と題している。フーコーのいう「自己への配慮」とは何かといったら・・・・・・・自覚とか責任といったものもふくめ、一個人として自分に向き合い、自分を大切にすることを指している。わたしの「自己慰安」もそれに似た意味合いをもっている。


 漱石の乳幼児期はキツかった、そしてそれを超えるために狂気と独創を獲得した。そうとしかいいようがない。赤ちゃんのとき充分に可愛がってもらえなかっったためにこころや気持ちが不安定になった人が自分を慰めたりなだめたりするのが、読む人々に及ぶ。それが文学の効用なのではないか。文学にはそういう面があるとおもう。
 わたし自身、自分をなだめるようにして詩や散文を書いてきた経験がある。
 
 
ここまで家族を単独で考えてきたわけだが、いうまでもなく家族も社会から大きな影響を受ける。個人的なこころの傷を語る前に、人がそれぞれに関わる、その時代特有の社会からの公傷(吉本さんの造語で時代から個人が受けるダメージのこと)の問題も個人を超えてそれぞれの人びとに大きな影響を与える。


酒鬼薔薇聖斗の事件があった同じ年に、ここのところ犯人が冤罪ではと再審が求められている「東電OL殺人事件」が起きている。そう今福島の原発事故でその体質が問題になっているあの”東電”だ。そして、殺害された女性はその東電の超エリート幹部で、当時自明のことのように社内では進められていた原発推進計画に強く反対する数少ない幹部でもあった。それも女性で。現在の勝俣東電会長は、彼女の直属の上司で彼女が夜な夜な娼婦をしていたことも知っていたという。当然、社内での軋轢も酷かっただろうし大変なストレスを抱えて勤務にあたっていたとおもわれる。事実、かなりの拒食症で他にも精神的不安定から多くの奇行があったという。



それでも、勤勉な勤務態度とその人柄から、特に女性の部下からの信頼度は高く、そんな彼女が何故昼とはまったく違った”夜の顔”をもたなければならないのか、それを理解するために彼女の夜の職場である渋谷は円山町に女性の部下達は出向き、その挙動を観察したという。そういった事情から、不幸にも彼女が殺害された後、マスコミにどの様に破廉恥に報道されても事件後、円山町の一角には今も彼女の名の付いた地蔵が安置され線香や花が絶えないという。



性という営みの結果子供が生まれ家族(対幻想)ができる。その家族を上手く運営できないと、その矛盾と歪みを受けた子供は暴力へと向かう。こういった事実を前にすると家族をもつことが怖くなる。でも、たいていはその事実を知る前に既に家族をもってしまっているのが普通だ。そして、その家族も社会から大きく影響されつつ存在しなければならない。


暴力のない世界はないものだろうか・・・・・・・そんな問いにある答えを与えてくれる事実がある。


ピグミーチンパンジーの世界には殆ど争いごとがなく、他の類人猿のように群れと群れの闘争もないという。つまり暴力をトラブルの解決や関係改善の方策として使わないということ。何故にそう言った「平和」が保たれるかというと、最後の類人猿と呼ばれる彼らの個々の関係性の基盤が、すべて「性」によってなされていることがその生態系の観察から知られている。彼らは異性同士はもちろん、メス同士、そして人間では近親相姦として禁忌となる親子でも性的関係をもつことが知られている。究極のフリーセックスだ。この事実は、吉本理論の神髄でもある「対幻想(家族=性)は共同幻想(社会)に逆立する」という概念に合致する。つまり社会=国家=共同幻想を、家族=対幻想より上位にあるものとして規定しないと国家=社会は成立しない。そのため近親相姦は禁忌とならざるを得ない。



「暴力」と「性」が根深く関連付けられて表出するのは、戦場のような非日常では数多くみられることはよくしられている。そして、ひとは受動的にしか存在できない乳幼児期に、母親ないしは父親からの暴力的ともいえる育児を受けた場合、可なりの確立で後年暴力的な表出をする確率が高くなる。そのエネルギーが自分に向かえば自死となり、他人に向かえば殺人その他の暴力行為となる。




性といえば、このところやけにこの Today's image の 続々・明日香・斑鳩へのアクセスが多いので(一日2万アクセス)、ついにこのサイトもメジャーになったかとニンマリしたがどうもおかしい。。こんな地味なサイトにそこまで多くアクセスする訳がないとデータ解析してみたところ・・・・案の定「哲学ニュース」というサイトに僕がアップした法隆寺の性的落書にリンクが張られて、どうもそこから訪れる方々でアクセス数が一日に2万にもアップしたことが判明。やれやれ、ひとの性への関心が、こんなにも凄まじいものかと今更ながら驚かされました。。
 
それにしても瑛太が、こんなにも演技力がある俳優とは知りませんでした。ドラマ好きのかみさんにいろいろ聞いたところ、彼は昨年お父さんを亡くしたそうだ。それも自死で。そういった事情も重なってその演技が僕らの深いところまで届いたのだろう。



「家庭の幸福は諸悪のもと」・・・・・・・・太宰治



愛の原型を醸成するのは家族のもと、という理屈は吉本さんから学べたが、それをバランスよく実践するのはとても難しい。


震災もあって日本人の多くがこころに余裕がなくなり、「それでも、生きてゆく」のような重たいが素晴らしいドラマをどうしても避けてしまう現実がある。返す返すこの時期に放映するしかなかった事情が残念だ。何年後になるか分からないが、福島の原発事故が真の意味で収束したとき是非再放送して欲しい。
 


あまりにも重たいテーマに触れてしまったので、ちょっといいかげんなことは書けないぞと、こちらも過去に読んだ吉本さんの著作を十冊以上読み返すことになった。再発見も多くあり、とても意義ある一週間でした。



<追記>

「”酒鬼薔薇聖斗事件”で見逃してはならないのは、少年が一人でやった犯罪のように見えるけれど、背後には、同じ時代状況にさらされ、自分だって何かのきっかけさえあれば、同じようなことをやりかねない何千、何万という子供たちがいるということです。つまり、今回の事件は、”子供たちが集団で殺戮したということと同じなんだよ”っていうことです。この事件を、少年個人の単なる精神異常として片づけてはならない、と僕は思います。」(吉本隆明)
 
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