自然の美不自然の権威 | ||||||||||
若手の陶芸家が公募展に出品しなくなっている。その一方で公募展への出品は減ったと聞かない。そして、アマチュア芸術家集団が公募展を支えるような構図に、若手陶芸家はまずまず嫌気がさし、その公募展から遠ざかるという流れができてしまっているようだ。 それは、陶芸に限らず絵画や彫刻でも同様で、さらに芸術院会員のような領域でも実力者が、あえて会員になることを求めない傾向にあるという新聞記事に接し、なるほどと思わせられた。 |
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あらゆる権威が崩壊の流れにあって、リストラクチュアリングをまっている段階なのかと思う。その権威は徳川300年の権威が崩壊した後に形成されてきたものであり、戦後に大きく軌道修正されたものであるのだが、それでも、その権威が崩れだしている。 かつて、憧れの対象であり、その流れを換骨奪胎して表現すれば時代の寵児となれたアメリカやヨーロッパが、その輝きを失っている。ユーロ圏の理想と現実のギャップが白日のもとにさらされ、さしものアメリカもイラク・アフガンの泥沼と金融工学の落とし穴から這い上がるのに必死だ。 |
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そして、この先になにが来るのか。近江信楽の山中に忽然と現れる神殿と美術館の存在を体感しながら、こういう処にあるいは人々は吸い寄せられていくのだろうかとぼんやりイメージした小春日和。 圧倒的な自然の美しさを見つめながら、これを神仏の存在としないはずはないと感じた。全国各地の霊山の開祖として登場するのが役小角(えんのおずの・えんのおずぬ)だが、実在すれども、その実態は生没年すら不詳という。 山岳信仰・山林修行の発祥は仏教のフィルターがきつくかかっていて、その古相を見ることは難しい。それでも平安時代の法華持経者は暗記した法華経とともに入山して、ひたすらその霊験を求めたという。 |
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常滑市民俗資料館 |
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『日本霊異記』や『本朝法華験記』の伝えるところがどれだけ実態を現わしているのかは疑問ながら、そうした聖・修験などが少なからず存在したことも否定できないのであろう。人は不思議な生き方をする生物だと言わざるを得ない。もちろん全てではないのだが。 さて、既存の宗教的権威も崩壊しつつあるように見えることは、何度となく繰り返しているのだが、信仰心のようなものは薄くはなりつつも消える気配はない。それと自然の美の礼賛も同じように僕には見える。 |
往復書簡
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およそ、人間の生み出した権威なるものは不自然な部分を内包せずにはおかないのだろう。だから、権威なるものは、やがて破綻を来すことになる。さて、それでは努力などぜず自らの信じるところを恃んで無為を旨として生きるべきか。 たぶん、自分にはそういう生き方ができそうもなく。あれこれと何かをしないではいられない。それが既存の権威に向かうことになるかといえば、たぶん、そうはならない。そう、僕が若手陶芸家であったとしても公募展には出品しないように思う。でも、なにかをせずにはいられないのも確かだな。 |
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