自誤の急須
常滑焼を飯の種にして、25年近くが過ぎた。常滑焼といえば、急須。急須といえば常滑という時代が、この25年である。いや、朱泥急須が常滑焼のイメージを代表したのは、さらに15年ほどさかのぼることになろう。昭和戦後期の経済発展に連動するようにして常滑の急須は量産され、急須作家も数を増やしていったのだった。

そして、昨今の常滑では急須を量産する工場は減り、急須作家も同様の傾向を示していると見える。この現象はダイエーが価格破壊戦略を導入し、中国が改革開放路線を取ったころから予測されていた。量産プラントの海外移転は進む一方で、最近では中国よりもベトナムが熱い、などとも聞く。そして、その一方では、お茶そのものがペットボトルで売られる時代になってしまった。

「いずれお茶はティーバック?じゃなかった。ティーパックになるぞ。そうしたら急須は、いらんようになるわいなあ。」と関係者と話したのは10年ほど前のことだったか。事態は我々の予測をはるかに上回って進んでいったのであった。かつて、「きんの(昨日)のお茶は捨てろ」と言われたものだが、今では何時淹(い)れられたものか知れないお茶がコンビニに並ぶのである。

急須は、こんにち「きゅうす」と呼ぶ。ところが江戸時代にあっては「きびしょ」と読み、キビショ・キビショウと呼んでいた。急焼と書いた事例もある。そして、これは大衆の使う道具ではなかった。文人と呼ばれる人々が中国の文化に憧れ、絵を描き、詩を作り、筆を取って書をしたため、それらを鑑賞しつつキビショで淹(だ)した茶を喫したのであった。

その頃の文人が描いた絵を文人画とか南画と呼ぶ。これまた中国にルーツがあり、かの地では南宋画と呼んだスタイルである。南宋があれば、当然の事として北宋画もあった。北はプロの絵描が王室の為に描くような画風であり、南は文人の趣味で描いた、もやもやと霧にかすむようなスタイルだという。

もっとも、わが国の文人の代表選手のような池大雅先生などは南宋画と北宋画をミックスしたような絵を描いているそうだ。だから南宋画の宋を取って南画というのだそうだ。そして、日本の文人たちが中国の文人たちも、これを使ってお茶を淹していると信じていた急須は、かならずしも、お茶を淹す道具ではなかったのも南画の成立に似た現象である。

日本人が憧れたヨーロッパやアメリカが、日本人の好みに合致した要素によって構成されたそれであったのは当然の事だが、江戸時代の文人もまた幻想の中国を熱烈に受け入れていたのだった。
この文人たちのキーコンセプトは「自誤」であったという。「自楽」もこれに近い。琴もまた文人の基本アイテムであったことは「自娯」を検索していて知った。なるほど文人の浦上玉堂には琴を弾く絵があり、長男を春琴と名付けてもいる。

琴の音を楽しむのは、人に聞かせるためではなく、自ら楽しむ事を第一として妙音とともに仙境に遊ぶ手段であろう。詩も絵も「自娯」を第一の目的とし、その楽しみを共有できる友との清遊を求めて止まないのである。煎茶は独茶をもって良しとするとされた。そして、2・3人の友と飲むのも許される範囲だが、お茶会などといって大勢に茶を供するのは文人の趣味にあらずということになる。
しかし、美味しい煎茶の味を知ってしまうと、その美味しさを共有できる友を捜してしまうものだ。そうなると、気に入りの道具なども持ち寄って茶会でもしようという気になるのはわからぬでもない。明治になると盛大な煎茶会が各地で行われている。そして、その頃から道具の趣味に変化が起きている。金満趣味が見えるのだ。

文人の「自娯」の道具は、ずいぶん緩い造形を好んでいたように見える。南蛮写しと称するものなど、とても緩いのだ。本場中国の文人が好んだ茶器はキツイ造形である。寸分の狂いも無いものが愛用されている。明治以降は後者が本来の道具だという知識が普及して、コレクターが金にいとめををつけずに集めたりしている。ただ、ここでも日本人は小さな道具を異常に好んで集め用いている。そこに、また日本人のちんまりとした美意識を読み取ることが出来るのだけど、お茶そのものも中国のお茶とは別物になっているという大きな変化があった。
ペットのお茶が、なんの抵抗もなく受け入れられてきた時期に求められる急須とはどんなものか。僕などは、使い手が好みの茶を自娯の時間に使う相当に限定されたものにならざるをえないように思えてならない。明治の作品には好みの作者に作ってもらった茗壷(急須)に好みの南画家が絵や書を彫り焼き上げた一品物がある。豊かだなあと見るたびに思う。