ずいぶん長い間、寄稿せずにきてしまった。その長い間に年末・年始があり、寒の入りがあり、節分・立春を迎えた。いくつかの個展を見て、作家と軽い話などもしたのだが、なかなか文章にしようという気分になれずじまいでここまできてしまった。
 
その間、もっぱら熱を入れていたのは、江戸時代以前に焼かれて各地へ運ばれていった常滑焼のデータを集めることで、これは丸1年の間、昼夜を分かたず継続している。日本列島改造ブーム以来、掘りも掘ったりで、この国は開発という名の下に年がら年中遺跡を掘りまくっている。
 
そして、そのレポートが山のように作られている。その山のようなレポートの中から常滑地域で焼かれた陶器を抽出し、いつの時代のものかを判定し、どういう種類のもので、どんな特徴があるのかといった情報を抽出しながら、一つずつカードを作り、エクセルに入力し、画像をスキャニングしている。
そして、現在1000遺跡、10,000点を少し超えるほどのデータが集積できた。まだまだ、充分にものがいえる段階ではないのだが、中世や近世の生産と流通に関してデータに基づいた発言が、すこしはできそうなところに到達。そうなると、いっそう熱が入ってくる。いろんな仕事や家事を後回しにしながら、少しの時間も惜しんで報告書の図面をカードに貼りこみ、ペンを走らせ、キーボードを叩く。そんな作業を、365日やってても飽きないのだから不思議だ。
 
地中から出てくるものは、大半が欠片になってしまったものばかりで、時代の変化を反映する口造りや文様をもつ部分の破片から、それぞれの破片の年代を抽出しているのだが、そこには美しさなどという要素はまったく無いに等しい。古文書を読むときに、その筆跡の美醜より、書かれてある内容が優先されることは自明で、書かれた内容が風雅な事柄であれば、悪筆もまた味な筆跡に映るものだし。
そして、欠片のデータをせっせと集積しながら鎌倉あたりで山のように出ている常滑焼は鎌倉人の目にどのように映っていたのだろうかなどと考えることも時にはある。勿論のこと、山のような常滑焼が鎌倉時代の文書に記録されているなどということはない。たぶん、なんらかの形で文字に記録されていたのであろうが、その記録は数百年の時のながれの中で消えてしまい残ってはいない。
 
大きな甕や壺が今日のそれらのようにインテリアとして鑑賞されていたわけではない。平泉あたりで大量に出ている甕などは、もしかして、その形や色調なども大きな意味をもったかもしれないと思わせるところがあるが、鎌倉となるとずいぶん雰囲気が違う。鎌倉駅周辺から由比ガ浜にかけての遺跡から出土する常滑焼は、もう貯蔵具やら調理具といった機能のみが求められているとしか言い様がない形であり、使い捨てられている。
王朝文化の名残を色濃くとどめる平泉の時代の常滑焼と鎌倉時代のそれとは一見して違いがわかる。前者のプロポーションは誰の眼にも優美に映り、後者のそれは無骨だ。ただ、その無骨な形状が、これまた美しい現代人の眼には映るというところが不思議で。ただ、そこに深入りしても迷宮をさまようことが予測されるので思考停止のままにして、悪筆も書く人によっては流麗な能筆をはるかに超えた味を醸す程度のことかと納得してきた。
 
そして、年明けに豊田市の民藝館で少し話をするように頼まれていたことなどもあり、昨夏、日本民藝協会の夏期学校の折に入手した岩波文庫の『南無阿弥陀仏』柳宗悦を電車の中や風呂の中、はては雪隠で用足しの折などに読んでみた。法然・親鸞・日蓮と続く浄土門の南無阿弥陀仏に関する柳の論説は、とても新鮮で魅力的であった。そして、自力に対する他力こそが民藝の美の根底にあったのかと大いに納得できたのだった。そして、日本絵巻大成の別巻として刊行されている『一遍上人絵伝』を改めて開いてみる。
ちょうど鎌倉時代の只中の光景が描かれ、浄土思想の興隆期の様子が生き生きと立ち上がってくる。当時の陶工たちが南無阿弥陀仏を唱える日常を送っていたかどうかは微妙なところだが、常滑市内にも鎌倉末期創建の時宗寺院がある。しかし、それにしても南無阿弥陀仏の力も資本主義の流れに抗うことはできなかったと見ざるをえないのが現実のようで民藝運動が衰退するのもここに由来するということになろうか。
 
焼き物は窯の中で、まさに他力の門をくぐることになる。しかし、その他力を自力にするために熱工学が進展し、電子制御が採用されて窯業が進展してきたのだった。陶芸もまた薪から石炭、石油、ガス、電気を燃料を変えながら否応なく自力の方向性を辿っている。

いまさら他力の救済に身をゆだねることなど不可能ということかな。しかし、そんな中で若い頃に常滑で陶芸の道に入った黒澤有一君が南無阿弥陀仏の世界に戻ろうとしている。これまで自力の匂いが強い作風であったが、昨秋常滑で開かれた個展ではレプリカに近い古陶の雰囲気が満ちていた。