名 月  
113年ぶりという記録的な猛暑が連続する夏、9月に入っても衰える気配がないのだが、日没は着実に早くなっており蝉に代わって蟋蟀たちが元気な声をあげ出している。釣瓶落としのごとしだ。

秋といえば月を愛でる季節である。中秋の名月などというものも清少納言のころから愛でるようになったらしい。薄の穂と共に団子を供えるところからは農耕の豊饒を願う行いでもある。

やがて天体望遠鏡なるものが生み出され、月の表面を覗いてみれば、そこここにクレーターがあり、山脈や海までが存在するという有様だ。

この地球にしてからが、人工衛星から見れば真ん丸な球体に見えるのであった。チョモランマというかエべレストというか、世界の最高峰ですら宇宙空間から見ればニキビにもなりえないのだから不思議だ。
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遠く離れて眺めていると天子のごとき麗人も、毎日一緒に暮らすようになれば、そこかしこに見たくもないところが見えてしまうと例えることもできよう。その逆もまた真である。いささか飛躍したが。

ついでに言えば波乱万丈な人生も終わってみれば、結局円満な生涯であったというのもありだろう。むしろ様々な出来事が大きいほど大きな円を結ぶ人生になるのかもしれない。

人類はある時まったき円を描き、太陽や月と同じ形を手に入れている。キリスト教や仏教の図像には、円が多用される。それはまったき者のシンボルでもあろう。

縄文時代に円や球のデザインを好んだ傾向は、さほど見受けられないと思われるが、弥生時代になると中国から銅鏡がもたらされ、特別な意味を持つようになる。まさに三種の神器の成立だ。土器も轆轤回転を用いた幾何学的円を描くようになる。

もっとも、その轆轤は精巧なものではないのであるから、いびつな部分も少なくはないし正確に円を描いているようでも、そう見えるだけで細部を見れば凹凸がいくらもあるのである。

球体のように見えて、どこか崩れている壺などに、より完全な奥深い球体を見てしまうということがある。それは、球体というより完全な美しさと言った方が適切なのだろうが、その美しさには、まったき存在としての神仏が宿っているとも言いうる。

仏典にしばしば登場する那由他・阿僧祇というのは諸説あるものの10の60乗とか10の54乗という、とてつもなく大きな単位を指している。それが仏菩薩の大きさであったり、年齢であったり、仏国土の広さであたりするのだから、もうイメージすることを放棄したくなるほどだ。
そして、仏教の世界が宇宙的規模で設計されていることを知る。その視点から見れば、この地球もまた現実の山や谷の存在を超えて滑らかな球体と見ることも可能になるように思われる。
 
常滑市民俗資料館




武骨に歪んだ物の中にも、まったき円球を見出す眼力を備えることが可能だというのが、侘び茶の成立によって完成したこの国の美意識の一つであろうが、それは森羅万象に仏性を見出す禅の修行と一体ということになる。

「山河を見るは仏性を見るなり」とは道元の言葉。見えないのは見る側の目が曇っているからに他ならない。

しかし、今日の日本人に共有されている渋い系の美の裏付けに仏性なるものが、いったいどれだけ意識されているのだろうと疑わざるをえないのも事実だ。希少性と既成の市場的価値による裏付けに幻惑されているのではと思わせられることも少なくない。
 往復書簡    


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