盂蘭盆  
盂蘭盆会は祖先の霊を祭る仏教行事だが、成仏している祖霊は、そちらの世界に行ってしまっているのであるから、あえて供養するまでもないと言えよう。輪廻を断ち切り涅槃に入るのが仏の世界であろう。追善供養をするのは、こちら側の人間の想いであり、寺側の思惑なのではないだろうか。

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仏説盂蘭盆経の内容を正確に確認しないまま書いているが、見るところ中国の孝行という儒教的背景から生まれた偽経らしい。儒教や道教は亡骸を大切に扱い火に掛けるなどという仏教的葬法は不忠の至りだということになる。この辺、儒教的な祖先観を江戸時代に広く受け入れた、わが国の民衆意識において受け入れやすい教義に違いない。


施餓鬼は故あって仏の世界に行けず餓鬼道に落ちた霊に施しをするという供養であろうが、浄土系では阿弥陀仏によって全ての人々は既に極楽浄土に救われているのであるから餓鬼道に落ちることは想定できない。よって施餓鬼とは無縁だ。

六道は仏教以前の輪廻が信じられていた時期の観念であり、仏教では心の在り方の種類として、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道を想定するのだという。目蓮尊者の御母さんは、とんだところで引っ張り出されたことになる。
 
常滑市民俗資料館





施餓鬼と称して施しを受けているのは寺の方ではないかと思いたくなるような拝金主義も見られぬことはない。法滅の世を顕らかに示すものであろう。

初盆を迎えた我が家では施餓鬼に出かけ、供え物をし、盆の棚を形だけながらも作り、和尚に棚経をあげて貰い、それぞれに御布施をし加えて寺に寄進もしようという。僕の世代では想いも付かないことが多いのだが、母親は江戸時代の庶民感覚に溢れていることが良くわかった。

 往復書簡    


東さんの抽象作品について
「侘びさび」その他
no.3 補足の返信
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そして、自分の中にある祖霊や寺に対する意識が母親のそれと大きく異なることに愕然とせざるをえない。一応、前の世代の認識を了解している自分でして、これなのだから、およそ世の流れは寺から離れていかざるをえない。

それでも、なお盆踊りや花火大会の賑わいに精霊流しのような風情は漂い、どこかで日本風にアレンジされた盂蘭盆会の名残を感じずにはいられない。おそらくは、今日の伝統工芸に宿る美の背景にも、電飾化された盆踊りや盛大な花火大会のような色彩が強くなっているのではないか。