返 信(「侘びさび」について NO.3)


by azuma
歯医者さんでのつづきです...........(10/05)

>陶芸において、ゆがみ、ひずみ、ちぢれ、といった要素が常に「わびさび」
>には付きまとっています。そして、色鍋島や古九谷、薩摩の金襴手などには
>そうした要素が見られません。


先回「自然」という極めて抽象的な概念を投げ掛けましたが、このことに本気で触れると何冊かの本になるくらい短時間では語り尽くせない内容を持ちます。端折って言いますと、本来なら窯に入れ熱を加えられたその素地は、結果として出た、ゆがみ・ひずみ・ちぢれは、「はね」ものとして外される運命にあると思います。

しかし、これも見方をズラして、加熱によって生じる物理的な変化である「ゆがみ・ひずみ・ちぢれ」を「自然」の面白味として感受すれば、茶人(文人=インテリ層)には、美しい自然の一表情として認知されるのではないでしょうか。
 
ただ、色鍋島や古九谷、そして、多くの蒔絵に代表される様な漆芸には、こういった物理的「自然」の表情を表現として狙う姿勢はありません。あくまでも構成的というか、あらかじめ作り手の考案であるイメージの最終仕上がりを想定し、そこに限りなく近づけることを旨とした「概念先行」の表現だと思います。

それに比べると「侘びさび」の感性の根底には、(人為)<(自然)あるいは、(人為)≒(自然)といった不等式にも似た価値観があるように思えます。この辺の「概念先行」型でない表現姿勢が、ある意味謙虚さといった倫理観に重なり、所謂インテリ層を惹きつけるところではないのかと理解しています。「個人の奢りを自覚している」といった風に解釈できますので・・・。

僕自身は、この考え方にエコロジストの香りがするので、ちょっと怪しいと警戒するところが多少ありますが。

>大名道具の金蒔絵の数々などを見ると、また茶道具の棗なども色漆などを用いて繊細
>な装飾を施していたりするし、作り手が「侘び錆」を目的化していたのだろうかというのが、
>ちょっと疑問で、塗りの工程では、根来などは使っているうちに下地塗りが出てきたという、
>ある意味で粗雑な塗りによって偶然現れたものですね。


もっぱら富や権威の象徴でもあった金蒔絵のコンセプトの中には、先ほど触れたような「侘びさび」の感じ方である、一歩引いたというか、捻った(良い意味で倒錯した)自然観による表現姿勢は全くないといっていいと思います。

つまり、「侘びさび」を当初から目的にもしていませんし、その様な意図は微塵もないと思います。
     
『泉』1917 マルセル・デュシャン作            千利休               
 
そもそも「侘びさび」とは、その様な富裕層へのアンチテーゼとして、逆立ちして見せた利休の美学から生じたものです。

話はそれますが、この利休の概念は、欧米においては現代に至ってデュシャンが登場することによって初めて理解された.......と、赤瀬川源平さんが確か「利休」という著書の中で言っていた様に思います。

つまり、不動の規範というか権威と言いますか、その様な常識を大前提として、それに逆立することで成り立つ表現だと思います。

痰壷を「聖なる」床の間に置き、一輪の山椿を挿す......ことで凄い!という世界を打ち出す利休のコンセプトは、美術館という啓蒙的で特殊、且つ非日常的空間に、便器を「泉」というタイトルをつけて展示することで、単なる便器が全く違って見えるということ。両者には、同じ様に重なる狙いがあります。

(「サラーム釉花」HPより)
この考え方は、結構日本人が得意としてきた概念です。

例えば、金継ぎなど似たような概念ではないでしょうか。

不注意であれ何であれ、陶器は落とせば割れるのが普通です。結果としてそこには、力学的に整合性を持つ(自然な)「形」の割れが出来ます。それを敢えて「金」という貴金属で継ぐことで、全く新しい表情を概念的に成立させてしまう妙。

これは、ある意味倒錯した概念だと思います。反則行為でもありますが、見事な反則です。



.....この調子だと<日光のラビリンス>の質問に何時辿り着くのやら;;;;?

気長に構えてくださるとありがたいです。

今晩はこの辺で......(寝不足だ~;;;)。

10/07 東 日出夫