疵ものなのに
ジャスコ・イオン系列を展開する岡田財団が手がけるパラミタ美術館が鈴鹿山麓の三重県菰野町にオープンして、すでに3年目を迎えている。そして、ここの売りは何といっても池田満寿夫の陶芸品群である。

ずっと気になっていたのに出かける機会がなくてそのままになっていたのだが、ようやく重い腰を上げたのは夏の初め鈴鹿越えして近江八幡に出かけた折に、パラミタ美術館の前を通ったことが大きい。けっこう近いのだった。

晩年になってとり付かれたように造り続けた池田の陶芸作品は般若心経を中心として仏教に主題をとった作品群で陶板にレリーフを施した仏画の類など、流石という出来ばえだ。
しかし、彼の陶芸作品で注目されるのは陶板ではなくて塔をイメージした大型の作品であろう。その表面には心経が筆で書かれているのだが、その文字が衒いのない素直な字で良い。

そして、池田の大型作品群はどれも陶芸を専門的にやっている人の目からみたら傷だらけの作品なのであった。それは工芸という領域からは完全に逸脱している。

それでも、やっぱり土という素材と焼くという手法で作品を作りたかったのだろうという作者の想いはすごく強く伝わってきて、たしかに池田満寿夫の陶芸ワールドが出来上っているのだった。

その未熟な手法による作品を見ながら、陶芸家の手だれたオブジェなんどを考えると、そのテクニックの器用さばかりが目に付いてしまうことを思わずにはいられない。
池田の陶芸と共通する印象を受けた作家にアメリカのピーター・ヴォーカスの作品群であった。その荒々しい作品群は日本のこぎれいなオブジェにはない、疵などあって当然というかのごとき代物であった。

器物に疵があれば、それは器として機能しないのであって、よほど特殊な場合でもないかぎり疵は致命的なものとなる。それでも「破れ袋」などと銘される茶陶の類は、疵を味わう連中。どれも茶の湯の道具だ。

茶の湯の道具には、たしかに工芸の規範を逸脱するようなものが少なからずある。もろくて扱いに戸惑うような楽茶碗など、その筆頭かもしれない。

日本の陶芸は、やはり、とてつもなく複雑で特異な発達を遂げてしまった領域なのだろうなと感じる。
8月に常滑で松下弘之・涼父子が開いた作品展「イノセント」で涼の「ペテン師の遺伝子」というタイトルの作品をご祝儀買いした。

むかし弘之氏が開いた初個展で購入した引掻き絵の皿も、我が家の食器棚に入っている。それらは、池田満寿夫に近い作風でいて、完成度が高い。やはり陶業地の風土がそうさせるのであろうか。

そして、急須屋さんの仕事には、その匂いがない。抽象作品を作る洋平さんでも、その作品は明らかに異質だ。破れ袋を作る人材は後をたたないが、急須を作ろうとする若者は急速に減っている。