新緑が眼に眩しい季節とはなった。年を重ねるごとに新緑の美しさに眼を奪われる。感動すると言っても過言ではない。見た目に美しいというのが第一義的に感動する原因なのだが、どうしてこんなに美しいと感じるのかが不思議といえばふしぎである。


それが、淡い緑色で彩られていることが美しいと言って見たところで、なんでやねんと突っ込まれたら返答に窮するしかない。やはり、そこに生命の躍動を見ているということなのだろうか。


欅などがとりわけ見事なのだが、秋に綺麗さっぱりと葉を落として枯れ木のごとく寒空に振るえていたものが、四月ともなると一斉に芽吹き若葉を茂らせるのだが、その若葉の美しさといったらない。
常滑レポート index
new  新緑
魂振 
 春の展示
卒業の季節
鬼祭後編)
鬼祭(前編
伊良湖
遺跡の眠る丘
新作
山岳修験と経塚
常滑の焼き物業界
極楽浄土が信じられたころ
食器と便器は焼き物ですよ
若手作家陶芸塾の出現
時代の閉塞
青い鳥?
良い急須とは・・・
常滑データー集め
25年前・・・・
老人と若者と
常滑のいま
ノリタケの森から丹波へ
アンコール
復元と成熟と
土ぐるい・土変化
疵ものなのに
ギャラリーを持つ工房
枯れゆく工場
急須屋さんと
凡才の盆栽
淘汰されつつあるもの
椿
鯉江良二
冨本泰二
もう少し家が広ければ
渋い系
自然の素材・人工の素材
常滑元功斎のリンゴ
在銘の急須
2005年の博覧会から
常滑焼きまつりから
自誤の急須
目に青葉、山不如帰、初鰹  素堂


初夏の季語を揃えているのだから、新緑の話題ではないが初鰹の初が新緑の新と絡むように思われる。江戸っ子は初物を好む。序でに「女房を質に入れても初鰹」なあんて川柳も江戸っ子でえいって感じだ。そして、当節、大半の日本人は江戸っ子の嗜好を共有しているように見受けられる。自分自身がそれであり、へたなマグロトロより鰹の刺身の方が数段美味である。


脇に逸れるが、江戸っ子はマグロといえば赤身を刺身とするのが常でトロの脂は粋な味とはいかなかったようである。ズケにして炙りで食すものであったとか、これはラジオで小沢昭一・変哲先生が20年ほども前に喋っておられた話題である。小生深く納得して今に記憶している。


鰹は回遊魚であり獲れる季節が決まっている。そして、新緑もめぐる季節の一こまである。ここから一気に死と再生というところに飛んでいこう。正月、新春をことのほか寿ぐのは、冬至に至って瀕死の状態に衰退した太陽エネルギーの再生を喜ぶこと洋の東西を問わず人類共通の現象のようである。恥ずかしながら南半球の人類学に不案内であり、人類全般を持ち出すのは危険ではあるが、東洋も西洋も北半球の概念であることに改めて気づかされる。
年末興行の定番、仮名手本忠臣蔵にしてからが、太陽神の再生を深層に秘めた江戸の文化であり、ヨーロッパのクリスマスも太陽神の再生とイエス・キリストの生誕をリンクさせたことによって、広く西洋世界に受容されたのだと説いておられたのが丸谷才一先生であったやに記憶している。


太陽の再生は有難く、草木は芽吹き、生物は地上に、空中に、海中に活動を始める。生命の躍動が春に再生するのだから、それを感じて喜ぶのは、同じ生命体である人類も同様であろうし、飢餓の心配からも開放さたのであろう。新緑は生命の躍動を可視化するとともに自身の生命の安寧をも感じさせてくれるものであろう。言い知れぬ感動の源泉は、ここらあたりに潜んでいるように思われるのであった。


そして、今、飽食の時代に南米のトラウト・サーモンや北アフリカのモロッコ・モーリタニアの蛸を食卓に上げ、タンザニアのナイルパーチの白身フライを格安ファミレス定食で食べる我邦のメタボ特別メニュー指導を受けた後期中年男子の小生は、新緑を見て、南太平洋で取れた鰹の刺身を口に運びながら太陽神の再生を喜んでいるとも思われない。
 
冬が終わり、春の暖かさがやってきた。花は咲き乱れ、若葉が街に急に萌え出して、と天地真理モードに浮かれている単純なオッサンなのである。しかし、花というのも、花が女か男が蝶か、蝶の口付け受けながら・・・と森進一が唸ったように、見ようによれば隠微なものである。


エロスが斯くも希求され、ネット世界を拡張する原動力にも成り得るほどの力を持っているのも、やはり、そこに生命の躍動と再生が可視化されるからであろう。生きる原動力が宿されていると言い換えてもいいかも。そうなれば遺伝子レベルの欲求が内在していることになる。 


リチャード・ドーキンス先生の利己的な遺伝子説に従えば、個体は遺伝子の乗り物に過ぎないことにもなろうが、脳細胞を肥大化させてしまった人類は、遺伝子情報に過剰反応し紙に書かれたまぐあいに興奮し、電子計算機の画面に欲情をそそらされる生物なのである。いやいや、抽象の極地にある文字記号の羅列によってすらエロスは掻きたてられるのだから、ドーキンス先生のSELFISH・GEMEに対するMEME、ミームというものにこそエロスは適合されることになろう。
 
   
ジーンの信号による生殖行為ではなく、擬似的文化的な遺伝体としてのエロスは、脳細胞の中に仮想的に設えられた擬似本能の中で勝手に肥大し興奮し快感を個体に恵むことになるということであろうか。妄想なんてやつに近いけど、より高尚にもなる。


昨春、研修生との山道散歩で出会ったカナヘビ君たちの交尾は、実に美しくも悩ましく、生命力に満ち溢れるものであった。そっと交尾中の一匹の尻尾を摘んで持ち上げてやると、その二匹は微動だにせず、まるで死せるが如き樣で持ち上がってくるのであった。


その情景をスゴイ・スゴイと云いながら携帯で写しているうら若き乙女を見ながら、その写真に撮ってるとこもけっこうスゴイぜって感じていた自分を想い出しながら、美の不思議さと、どこかしら滑稽なMEMEのことを新緑に包まれて書いてみたくなったのだった。 
常滑市民俗資料館




往復書簡    


東さんの抽象作品について
「侘びさび」その他
no.3 補足の返信
「侘びさび」no.3 補足
「侘びさび」no.3
 「侘びさび」no.2
「侘びさび」

page top