急須屋さんと
凡そ金石の器を製するに貴ぶところ工の精なるに在らず工精なるに似て而して俗の気あるを見るもの則ち可ならず趣ただ自然にして而して清雅なる者
すなわちこれを貴品となす所なり。

とは明治11年に常滑を訪れた金士恒という清朝末期の文人の遺した言葉である。
この俗気と清雅の違いが作品に現れるのはどうしてなのか。
「結局、人間が出るってことだて。金が欲しいと思って仕事したときの急須は、金が欲しいという急須になっとる。夫婦喧嘩をしてムシャクシャした気分で仕事した時の急須は、やっぱり丸味にどこか角がでるものだで。」

繊細な作風で一代通している都築青峰氏のものとに、陶芸作家の卵たちと訪問した時、青峰氏は言うのだった。
たしかに、おっしゃる通りで青峰さんの人間味は、多くの人々を魅了するのである。その作品は使うには、ちょっともったいないと思わせる繊細な急須になる。

工の精なる作風なのだ。そして、女性がいると、二言目には一緒に飲みに行かないかと誘うのであった。男女の話しも飛び出し、僕などセクハラだと言われそうで、とても口にできない言葉も平気である。

聞くほうも、それを嫌味に感じないのだから、これを俗と言うべきかどうか。清雅というには、いささか脂ぎっているのだが。
その青峰氏が尊敬するのが小西洋平さんだ。洋平さんの人間味も尋常ではない。ヘンリー・ムーアに傾倒して自らヘンリー・洋平と名乗ってみたりする。かなり違うのだが。

その洋平さんの作品は、多種多様ながら練り込みカット技法が売りであった。それはヘンリー・ムーアとは異質の器用仕事に属しているし、あくまで使い勝手の良い急須なのであ
った。

洋平さんも饒舌に語る人である。艶なところは少ないのだが、なんとも面白みの溢れる人物で情熱的なのだった。その過剰なほどのエネルギーが、急須という作品に収まってしまうところが不思議で、器用さが過激さをなだめてしまうかのようだ。
いずれ生活をしていくためには、世間で受け入れられることが重要になる。急須作家を常滑では急須屋と呼ぶ。それは、急須さへ作っていれば食べて行くことができた時代の名で
もある。

そして、青峰さんや洋平さんは急須屋でありながら自分のデザインを確立し、それで一家を構えたのであった。それぞれの作風が、その作り手ほどに過剰ではないところに、急須屋さんの急須屋さんたるところがあるのであろう。
さて、事は急須と離れて、少なくとも陶芸作品一般の話しに広がるのだが、ここでもやはり作品を通して作者を味わうという風潮は強く見られる。自分にしてからがそうで、作品
のみに純粋にほれ込むということは意外に少ない。

世間で高く評価されているからという眼鏡や、将来値が上がるという噂などに左右される人びとも少なくはないはずだ。だからこそ、人間国宝などという看板が大きな意味を持つ。

人間国宝ともなれば、単に技術のみでなく、人格識見もまた低いはずはないという形で、作品から人を見るという場合もありだ。
カチカチの硬い人物で、その作風もまた硬かったのは、二代陶山先生だ。そのご子息の工房を訪問して昔話などしつつ四方山の話し。北大路魯山人の作品はまったく良いとは思えない。とは三代陶山氏の弟、陶游氏である。

人物は柔らかそうながら、作風は親譲りに硬い陶游氏は、魯山人の整わぬ形や分厚い器の類に拒絶反応が出るらしい。そして、その見方は正しく器の作り手の性格を見ているのであって、必ずや魯山人のパーソナリティーに陶游氏は拒絶反応を示されるに相違ないと見たのであった。

陶芸に限らず、他の工芸分野の作品でも、おおよそこんな形で作品と接しているのだが、工芸作品の作者が、そして、その人柄が前面に出てくるのは、決して古い事ではない。

洋平さんや青峰さんは、それぞれの作風も作り、また人間の魅力でも商売をしてきたように見ているのだが、それは優れて今日的なスタイルということになろうか。

そして、民芸的な工芸はもはや成立しえない状況に至っているということなのであろう。
民芸派の作家の作品もまた、そういう志向性をもつ作者の人柄を透視されつつ受け入れられているということになろう。
作家の個性といえば、西洋風の評価とも思いがちであるが、どっこい工芸品の作者の個性をもって作品を評価するのは西洋のスタイルとは思えない。産地や工房が評価の単位である。中国もまた然りである。

中国の陶芸の中でも文人趣味を基盤にもつ宜興のティーポット(茶壺)のみは、作り手が前面に出てくる。誰それの作品だから高価なのだという。その技術の高さやデザインを、さらに作者の趣味教養を評価するのである。

明朝末期から清朝初期にかけて確立する茶壺は、その初期から現在まで、作者の名前が明記されるのである。

日本では、作者が前面に出てくるのは楽長次郎や楽吉左衛門、野々村仁清、尾形乾山、さらに本阿弥光悦といったところが早いところか。これまた茶との関連は深く、年代も明末・清初だ。やはり、日本的な茶の湯文化が大きな意味を持つということになろうが、その一方では文人趣味的でもある。