親父の死  

2009年10月の終り頃、市民病院から電話が掛かり父親が事故に遭い救急病棟に運び込まれたという連絡があった。急いで駆けつけると、父は医師の診断を受けていたが、これといった外傷はなく、会話も成立し、自力で歩行もできた。ただ、事故の顛末をまるで記憶していないところに一抹の不安が残った。

母が事故の相手に会いに行き、示談成立。9対1で当方が悪いのだが、相手の若者は車両保険に入ってくれており、怪我もなかったので事故に対する弁償は請求しないとのこと。そして、事故から3日ほど過ぎて、父が気分が悪いと言い出し、入院することになった。結果は硬膜下血腫による高次機能障害。歩行困難であった。

それから1月ほど入院。それまでにケアマネさんに来てもらいデイサーヴィスを週3日受けられるように手配。それを2週間ほどするのだが、父はカラオケばかりでつまらないのかほとんど寝ていたらしい。昼夜逆転の生活。
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年が明けて2010年1月4日。定期の診断日で病院に行くと、まだ出血が続いているとのことで入院。80才になる直前に心臓の弁を人工弁にする大手術を受けており、血液の凝固を弱くする薬を毎日飲んでいたのが原因であった。

薬を代えて、しばらく様子を観てから頭皮を少し切開して血腫を吸引する手術を受ける。成功。順調に回復し1月末に退院の段取りとなる。しかし、血液検査の結果、白血球が多く病変反応が見られるとのことで脳外科から担当が外科に変わって、入院継続。

我が家では、退院に備えてショート・ステイが出来るようにケアマネさんと相談し、部屋も確保してもらっていたのだが、それを2度キャンセル。申し訳ないことであったが、退院はついに出来なかったのであった。

その後、大便に血が混じるようになり、下血は大腸の亀裂からと推定されたが、体力的に内視鏡検査などはできないことから、点滴で水分・栄養を補給し、薬を混ぜて治療をする事になる。絶飲・絶食が続き下血が無い日も見られるようになる。
元気になった父は、口の渇きを何とかしたかったのだろう、ベッドサイドに置かれていた乳液のようなものを口に運んでしまった。そして、誤飲。肺にそれが入って炎症を起こしてしまった。その日の午後、病院から病状急変の報を受けて急行。家族集合、父の兄弟への連絡。これで終りかと思ったのであった。それが1月27日のこと。

それから、酸素吸入を受け、個室で家族が付き添うという形になる。それが10日ほども続いたであろうか、もう駄目だと思われた病態は、回復に向かい4人部屋に戻るという展開になったのであった。付き添いから解放されたのだが、相変わらず点滴のまま。さらに尿もチューブで採る形にする。

このチューブを抜いてしまったり、酸素マスクをはずしてしまったり、で父は手袋をはめられ、しばしば手袋がベッドサイドに縛られていたが、止むを得ない措置である。面会に行き、手袋をはずしてやり、その大きな手をマッサージしてやることくらいしかできなかった。

そして、2月の17日になり、また個室に移った。尿に血が混じるようになり、腎臓の機能が低下しているということだった。太腿からの点滴から雑菌が入った可能性もあり、点滴の入り口を胸からに変更。18日、母が付き添い、19日は僕が付き添う事にしていたのだが、19日になって個室から4人部屋に戻ったとの連絡。夕刻見舞って手足をマッサージ。
父は何かを振り払うような仕草を何度かして、胸を叩いた。はじめて見る素振りで気になったのだが、看護師の問いかけには頷いており意識はしっかりしていた。それほど変わったところも見られないので7時前に帰路に着く。

いつも通り、買い物に行き、料理を作り食卓に着き、酒なども頂いていると母から電話があり、病院から父の病態が急変したという連絡があったという。タクシーで駆けつけようと思ったが電車の方が早いという声を耳に駅に走る。2月19日の夜。駅までの道のりが、事のほか寒かった。

病院に着き、個室のドアを開けると看護師が処置中ということで入室を断られた。小一時間ほどもドアの外で待っただろうか、入室を許されて入ると父はすでに点滴を抜かれ、心停止状態で瞳孔の反応もなし。もちろん呼吸も停止状態であった。何度か呼びかけてみる。当然のことながら反応はない。まだ、体は温かさを保っていたが死んでいることは明らかであった。

翌日、名古屋で会議があり、僕が司会進行役であったのだが、事務局担当者に電話を入れる。こういう時、携帯は実にありがたいツールであると実感する。取り成しを頼むと同時に関係者への連絡を依頼。母がタクシーで着いたのは、それから30分も後であろうか。父の兄弟に連絡。

病院での湯灌を頼み、新しい浴衣を事務室に買いに行く。葬儀屋に電話。車を手配してもらい霊柩車で遺体を自宅に運んだのが12時ころか。それから、今後のスケジュールを立て、遺体の保存処置を講じる。今はドライアイスではなく冷やす装置がある。病院での最期の顔は口を開けていたが、霊安室では口を閉じ、安らかな表情になっていた。家で布団に包まれると、まるで寝ているようで、今にも目を開きそうなくらい。午前2時半に就寝。
 
常滑市民俗資料館




翌日、6時起床。村の坊主に連絡。枕経を上げてもらい戒名の相談。居士号を頼む。市役所に死亡届を提出。同時に翌日の火葬場の予約を行う。丁度、仕事が休みの番にあたり、職場に顔を出し、いろいろと手続きを頼み、通夜と葬儀のお手伝いを依頼。

葬儀屋の担当者が来て日程の確認。祭壇のサイズ、会葬御礼、香典返しの品、籠盛や餅、花などの選択。新聞折込チラシの場所。通夜お手伝いの人の食事。精進落しの料理などの選択。ホール玄関飾りなどもあれこれ。

実は同じ病院に入院していた隣組の人が父より20分ほど早く逝って、同じ葬儀屋に連絡していた。そこで、そちらが先約となり月・火の葬儀。我が家は火・水の葬儀に相なった。坊主も同じだ。枕経かけもち。

お淋し見舞いに何人か来てくれ、死に水をとり、死顔を褒めてくれる。翌日21日午後2時出棺。2時30分に火葬。それに合わせて10時より納棺を行う。1時30分に坊主が来てお経を上げ、2時出棺。喪主挨拶。線香を上げて火葬。1時間後にお骨を上げる。


夕刻、坊主、白木の位牌に晴山一道居士という戒名を書いて持参。その後、簡単な仮通夜を行い、葬儀告別式の形を決める。導師に5人の脇導師。葬儀屋、仮祭壇を作り、そこに位牌、遺骨、遺影を飾る。遺影は家の息子が玄関先で葬式用にと撮った写真を使用。これまた好評であった。
 往復書簡    


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no.3 補足の返信
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 22日月曜日、ぽっかり明いた一日。お通夜のお手伝いや参列者の名簿作成。葬儀屋と打ち合わせ。子供達は学年末の試験が始まる。告別式には参加できない。病院に入院費を支払いに行くが、まだ計算が終っていないと言われ帰る。子供たちは学年末試験が始まり、昼前に帰宅。ご飯の準備など。

23日、いよいよ御通夜。2月とは思えぬポカポカ陽気で最高のお日和となった。1時間ほどして会葬者も減りだしたので喪主挨拶。始まって30分は賑わったが、その後はちらほらで、混乱もなし。喪主挨拶でお開き。

24日火曜日。午前11時より導師・脇導師による葬儀。告別式。一通り過ぎて喪主挨拶。葬儀屋が用意したありきたりの文例を抜けて、親父の一生の概略を述べ、参列者の生前の助力を謝す。なかなかいい挨拶だったと思うが子供達が試験で列席しておらず残念なり。しかし、この日もめっきり春めいてポカポカ陽気。有難いことではあった。

思いのほか、父親の喪失感はなく、母親もまったく悲しみがない。むしろ、病院の付き添いから解放されてサバサバしているのであった。数え年ながら85歳はK点越えであるし、生前の行動が基本的に関白亭主であった。
 
 父親としては子煩悩な方であったが、子供としては残念ながら話し合える話題が少なく、いつもテレビを観ながら寝ている想い出が強い。小学校までの記憶は濃いのだが、それ以後の交流は少なかった。

それでも学費などお世話になったことは間違いない。感謝しているのだから。その意味を込めて喪主の挨拶に反映させたのであった。しばらく休憩を挟んで、初七日の法要をする。その間に導師に85万円なりを渡す。脇導師への謝礼や戒名代を含み、49日までの7日ごとの読経も含んでいるが、こういうものの公定価格はないのよね。

その後、精進落としの会食。一食4000円ほどの御膳で、とても食べ切れない。分けた供物と共にお持ち帰りいただく趣向になっているのである。ホールに飾られた花籠の花もばらして身内やお手伝いいただいた方々に持ち帰っていただく。すべて終わって午後3時ころ帰宅。めっきり春めいていい葬式だったと思う。

つづく・・・