凡才の盆栽
 盆栽というのは、すでに日本語の領域を越えてグローバルになっている。BONSAIは柔道がJUDOになったようなものだ。

 鉢に苗木を植えて過剰なまでの肥料を与え、そこに山水の景観を表現する行為は明らかに趣味の世界に属している。

 盆栽鉢と似た言葉に植木鉢がある。盆栽鉢は植木鉢の中の一種であり、植木鉢には植物全般が植えられるのに対して盆栽鉢には一年生の草類は植えられないように思う。
 松や真柏といった枝ぶりやら、幹から根の張り具合を観賞するものと、皐や梅、桜のように枝振りとともに花を観賞するものとがある。もひとつ加えれば梅もどきや柿、姫りんごのような実を楽しむものもありだ。

 蘭や菊、万年青、さらには山野草といった草の系統にも盆栽に近い世界であるが、盆栽とはちょっと違うのは山水の景色になじまないからだろうか。木の方では観音竹が、はまり込む分野だが、これも山水とはちょっと違うイメージだ。

 もっとも松や柏、皐などの古典的な分野に対してミニ盆栽やマン盆栽など、新しい分野が出てきて前者は草系に近い印象だが、マン盆栽は箱庭の現代版といったイメージであろうか。

 古典的な盆栽には圧倒的な時間の凝縮が感じられる。せいぜい1メートル足らずの木でありながら樹齢数百年という古木は、まったく独自の宇宙を生み出しているかのごとくである。

 樹齢が800年などといわれる古木の盆栽があるのだから、盆栽の歴史もそのころからと思われ、実際、盆栽について検索してみると鎌倉時代に始まるという記述に出会うのだ。
 謡曲「鉢の木」は執権北条時頼の廻国伝説に基づくものながら、実際に書かれたのは室町時代で、作者は世阿弥の父、観阿弥(1333〜1384)とも言われる。そして、ここには松・梅・桜の鉢が出てくるのだ。

 そこで室町時代までは盆栽が遡れるだろうか。徒然草に人工的に曲げたり捻った枝を楽しむのは、愚かなことといって鉢の木を捨てる日野資朝の記述があるという。そして観応二年(1351)に藤原隆昌によって描かれた絵巻物の『慕帰絵詩』や延慶二年(1309)に高階隆兼が描いたとされる『春日権現記絵』などには、明らかな盆栽が描かれている。

 『慕帰絵詩』の鉢はひょっとすると瓦質土器かとも思われるが、中国産でもあろうか。
そして、『春日権現記絵』のそれは青磁の皿や盤のように見える表現である。

 その盆栽鉢のモデルは中国の線香を立てる道具であったものを転用したのだと、これは常滑の盆栽鉢業の方からうかがった話で、真偽のほどは確かめようもないのだが、ときどき出かける寿司屋のカウンターには、その線香立てとおぼしき青磁の角浅鉢にワサビが入れてある。

 ワサビは水に浸っているので、盆栽鉢のように底に穴が開けられてはいない。香炉であればむべなるかなこうしたものを転用して日本的な盆栽鉢ができたものかと思われるのである。
 そして、室町初期の絵画にえがかれたようなものはもちろん、江戸期のものですら実物にお目に掛かることは少ない。江戸時代の後期から幕末にかけて文人趣味が流行し、煎茶のブームが巻き起こるのであるが、盆栽もこの動きに連動している。

 風雅を愛し文房調度を清玩するディレッタントにとって盆栽はまた恰好のアイテムであっただろう。このころから盆栽鉢は地味な泥物が主流となるようだ。それは、茗壺の産地宜興で焼かれたものだという。

 常滑で宜興風の盆栽鉢を造りだしたのは明治26〜27年ころだという。それは、中国からの輸入品を摸倣してつくられたもので、烏泥の角鉢の話であるが、明治10年の第1回内国勧業博覧会には大植木鉢が出品されており、同14年にも植木鉢の大器と楽焼の植木鉢が出品されている。さらに同23年になると大植木鉢、青磁植木鉢、朱泥植木鉢といった具合で植木鉢の出品が増加している。

 そして、大正期から昭和初期の常滑では「大正常」というブランドになるほど完成度の
高い盆栽鉢ができるようになったとされる。そして、昭和も戦後の経済成長とともに盆栽
のブームは何度となく繰り返しおとずれ、常滑の業界を潤したのであった。

が、しかし、そのブームは昭和末期から絶えて久しく、中国からはかつて常滑がコピーしていたような古いものが輸入されたり、いつわって中国産にみせかけた常滑産の名品が中国ものとして流通したりと、業界には暗い話題が増えるばかりの期間が続いている。
 そんな中で、陶芸作家としてアート系の作風をもって登場してきた松下弘之氏が凡才という号とともに盆栽鉢の世界に入っていったのは、かれこれ20年ほど前からであったと記憶する。

 そして、着実に存在感を増してきているのであった。盆栽の凡才が凡庸な盆器を作るわけはなく、工場の一角に並ぶ作品をみても、明らかにスタンダードを逸脱するものばかりなのである。

 そして、その種の鉢は作家と同様に個展などで販売するものと思いこんでいたのだが、本人に尋ねると驚く事に問屋を通して売っているというのであった。

 常滑の問屋はどこも植木鉢・盆栽鉢の類を扱っているが、どこも工場が作る規格の統一された量産物ばかりを対象としていると、これまた思いこんでいたのである。そのあたりを尋ねると、問屋にこういうものも売れる事を勉強してもらったのだという。
 盆栽の関東での中心地は、埼玉は大宮にあるようだが、そうしたところの盆栽作家とコラボレートして自作の鉢を売りこみ、注目されて購入希望者が出ると問屋を通して注文してくれるように伝えるということを数年繰り返す内に、問屋も仕事を持ちこんでくるようになると。

 凡才氏は多産地の作家に常滑には問屋があるのが羨ましいと言われた経験をもち、また父親を含め同業から問屋を大事にすべきことを何度となく教えられているという。工芸が産業として確立していく課程で流通販売分野は早くに分業されている。

 そして、しばしば流通が製造を支配するようになる。製造御者は問屋の言いなりになって、言われるものだけを作って生計を立てる。そして、そこから高度な技術を持ちながら時代の流れに適せず、淘汰されていく生産者も少なくない。

 盆栽鉢の世界は、長く続いた低迷をくぐり抜けて、もう一度作り手の主導権が求められつつあるように感じられたのであった。そして、職人を雇い入れて工場で同じデザインの鉢をどんどん作ったり、最新鋭の機械を導入して量産するような展開は、この先望みうべくもない。

 なにせ、その根本が趣味の世界なのだから、その他大勢と同じ趣味に満足する趣味などたかが知れているではないか。