2005年の博覧会から

愛地球博という国際博覧会が3月にオープンして9月に終ろうとしている。総入場者は2000万人に及ばんとする勢いである。しかし、70年の大阪万博を知る身としては、万博の歴史的役割が大きく変ったことを痛感せざるを得ない。やる前から予測はできたのだけれど。

35年の間に世界は狭くなり情報は氾濫し、娯楽も多様化したのだった。よってロボットの舞台や立体映像や映画に自分の顔のキャラクターが登場するといった新趣向も、さほどの新鮮味はない。

35年前と大きく異なるのは、各国の特色ある食べ物が販売されていることだ。グルメは当節、人を呼ぶのに欠かせないアイテムである。ところが、そのローカルな本場の味の盛られる器たるや、これはトレーの親戚である。

まったく料理が可哀想になるくらいの器なのだが、それらは大量に重ねても軽く、壊れず、そして、汚れないのであろう。環境配慮型の博覧会である。あるいは、土に返る素材なのかもしれない。
でも、でも、泣けてくるようなデザインであることに変わりなく、オートマティックに機械が量産したものであることは明白である。そして、そこに工芸的な配慮は微塵も窺えなかった。

機械主導による機能のみの造形には美が宿らないということを証明しているかのごとき様であった。そこに美を宿らせようという余裕がなかったのかもしれないが、日本人の工芸はイベントにも宿って欲しかった。

が、祭りの夜店のたこ焼きの発泡スチロールのトレーにも美は宿っていない。そして、我が家の子どもたちは、「きつねどん兵衛」が大好きだ。「焼きソバUFO」も、父の手料理より好きかもしれない。夜店のたこ焼きトレーよりはましかもしれないが、使い捨ての器に美を宿らせるにはコストパフォーマンスとして、ちょっと問題なのであろう。およそ工芸的ではない。

我が家の食器棚の器は80パーセント以上が作家の手になるものである。残り20パーセント弱には、子ども会のイベントでもらったスヌーピーのプリントされたカップや皿が含まれる。

そして、その作品から作り手の器に対する愛情など、かけらも窺えないのであった。そんな状況下で器に対する日本人的な美意識は受け継がれていくのだろうか。心配である。が自分の子どものころにも、同じような傾向があった。
  
コップにプラスティック製品が登場してきた時代だ。それは、それなりに美しいものであった。そして、今、あのガラスもどきのプラスティックコップを見ることはない。
万博はペットボトルの持ち込み禁止を通した。ペットこそガラスもどきだな。これも、いずれ懐かしく回想する器になるのだろうか。工芸的な美は宿っていないとおもうのだが。

機械主導の製品にはなぜか美が宿らない。量産品の安価な商品にも同様の傾向を認める。安価な量産品には機械主導の製品が多い。手作り品に宿る工芸的な美は、作り手の仕事に対する愛情といったものに起因するものか。

手作りで安価なものは輸入品だ。そして、それらの中には、時にグッと来るものがある。この値段では作り手に申し訳ないと思わせるものが。でも、その安い労働市場に機械を持ち込んで、さらに安い商品を作り輸入する業者が出てくる。でもでも、それを喜ぶ市場が存在している現実があるのだから、これはいかんともしがたい。


家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(万2-142)有間皇子


悲しい状況下で読まれた歌だが、古代の日本人の椎の葉に盛る食べ物という感覚は、愛地球博で活かされるべき美意識なのではないかしらん。もっとも、ぞっとするようなグロテスクな器が出てきたかもしれない。モリゾーみたく。

「美が凡ての大衆の生活に行き渡ること」「美と用が交わるものを工芸と呼ぶ」柳宗悦の文からの切り抜き。

テレビは全ての大衆の生活に行き渡ったが、生活の中の美は等閑に付されているということになろうか。