在銘の急須

江戸時代も後半、文政の世になって、常滑では出所に不安の残る茶瓶の図をテキストとして急須を作り始めた。幕末には、本場中国の正確な茶器の情報が伝わり、明治11年には、その製法も伝わった。それは在銘作品として始まったのだった。

幕末・明治から、常滑の急須造りは本格化したのだが、いまだ産業というには程遠い、文人趣味に傾倒した都市部の富裕層の需要を満たす程度であった。

そして、この流れは昭和戦前期まで大きく変わらない。常滑の大半の急須作者は陶号を持っている点からすると「民芸」という範疇から少しずれて、個人作家的な位置を占めているようだ。

「民衆的工芸、吾々はそれを[民芸]と約言している。」「私は個性に立つ工芸を工芸の主流と考えることが出来ない。私達はもう個人主義の古き殻を脱がねばならない。」「在銘の工芸は傍系の工芸である。」『民芸とは何か』柳宗悦 昭和6年より

そして、戦後文化が発進すると、文人趣味は見事に退潮していく。それは、アメリカ的文化規範が中国的規範と交代したことをとても鮮やかに示す現象だと思える。多分、日本画の分野から南画が消えていくのとも軌を一にしている。

戦後の復興を一応成し遂げた昭和40年ころから、石膏型に泥漿(でいしょう)を流し込んでボディー、取っ手、注ぎ口、蓋の各パーツを作り、それを組み立てるという量産技法が開発された。そして、常滑の急須は、それまで大衆レベルに浸透していきつつあった四日市の万古焼の急須を駆逐していったのである。

万古は産地の名前で売っており、より民芸的だ。美濃赤坂には温故(おんこ)という産地もあったのだが絶えて久しい。

ちなみに万古に轆轤の技術が伝わったのは温故経由と常滑経由があるのだが、万古では轆轤職人のことを「温故挽き・オンコヒキ」と呼んだとされる。

量産急須を常滑では「鋳込み・イコミ」と呼ぶ。それは、安物の代名詞である。そこに改良を加えて鋳込んだ急須を轆轤に乗せて、手作りの味を演出したものやら、手彫りの装飾を加えたものやら、いろんな試みが為されてもきた。

そうした工場では、工房の号を使って職人の手作り品も売り出している。文人趣味は退潮したのだが、その痕跡が高級品のイメージには、なお痕跡的に残存していたということだろうか。

「資本に悪があるのではない。それがいつも商業主義と結合するからである。利の前には一切のものが犠牲になるからである。而も無遠慮な機械の行使が労働を単調にし苦痛にしている」
「機械生産は激甚な競争を伴ってくる。客を引くためには作物に刺激がなければならない。」
「俗悪と粗悪とが之に伴うのは必然である。民衆は多量と廉価とを獲得したであろうが、代償として質を失い美を失って了つたのである。」
『民芸とは何か』柳宗悦 昭和6年より

  
1960年代から80年代にかけて、常滑は急須工場が雨後の竹の子のように増加し、それとともに手作りの作家も増加していったのである。大衆レベルで美味しいお茶を飲むようになり、道具に対する好みも多様化したのであろう。

ただ、急須はノリタケのような大手ブランドが成立せず、個人工房の文人趣味の名残をもった作品を頂点として、量産品も基本的には伝統の形態や装飾を踏襲している。

個人作家は言うまでもなく、量産工場でも形ばかりの雅号の印を製品に押しているところからも、その急須に対する意識が見て取れる。雅号としての陶号を持つ作家は、伝統陶芸の中にあっても、ごく限られた存在であろう。楽家や三輪家、清水、柿右衛門などなど。

そして、戦後の伝統工芸において作家は雅号を捨てて本名を名乗ってきたように思う。陶号そのものが文人趣味的であるし、喫茶も文人趣味と不可分の関係にある。にもかかわらず、その急須生産者は、その出自にまったくといってよいほど無自覚であった。

なんとも皮肉に思えてならない。そうした浅薄さからは趣味の世界ですら生き残れないのではないかと危惧されるのであった。もっとも、「オレの急須は今でもよく売れるよ。」と豪語する作者もいる。
常滑の急須は、その使い勝手の良さや、歴史の中で練磨されてきたデザインからみて、どこの産地にも負けないだけの蓄積があるのだと彼はいう。しかし、僕の見るところそうした技術的なベースを持ちながらも、売れる背景は、彼の人間的な面白さなのである。

急須作家は長く問屋に依存してしていた。それは、今も大きく変化していないとも言えるが、問屋の方が大きく変化した。

陶器の小売店が消滅し、ホームセンターとギャラリーの時代になって久しい。問屋は産地直売の小売店に変貌している。

そして、急須作家として残っているのは、独自に客の人脈を切り開いたり、個展を開いて自作を売り出す才覚をもった連中に限られていくようである。

柳先生の理想とする社会は訪れることなく、傍系の路線で行くしか道はないように思われる。