ギャラリーを持つ工房
「昔は自分で客に売るなら、問屋がどれだけ締め付けてきたかしれんて。」という話は、高度経済成長時代の常滑で急須がバカ売れしていたころの話であろう。

 そんなころに急須の作り手が、自作のギャラリーを開設してお客さんを呼び込むなんて行為はありえないことだった。そういうやり方をするなら、常滑の問屋は一切お前のところの急須は扱わんぞということになる。締めだしだ。
そうなれば、自分で製品の販売をすべて行わなければならなくなる。いきおい問屋に逆らってまでやるより、問屋の注文を受けていた方が、生活が安定するとなっていたのだった。ところが、価格破壊だとかバブル崩壊だとかデフレ脱却などと言われ始めたころから雲行きが変りはじめた。

 問屋はカタログを印刷して、そのカタログナンバーの注文があるぶんだけを生産者にオーダーするように変化した。それは、何番の急須をいついつまでに、いくつ納めてくれという形である。
 その注文の数が一桁になりだしたのが、ここ10年ほどのことで、そうなると作者が問屋を通さずに自分で客に売ることを問屋も咎めるようなことはしなくなったのだ。逆に生産者が作って人気のあるものを仕入れるというような傾向すら出てきて、それでは小売と変らない。

 冒頭にかかげた言葉は、自ら住まいと工房を改築してギャラリーを開設した吉田雄峰氏のもので、その問屋に対する批判は辛辣であった。そして、「昔の問屋は急須屋を育ててくれたものだ。」という言葉もあった。それは売れなくても買ってくれ、その上で改善すべき所をあれこれ指摘してくれたということであろう。
 問屋は市場の動向を見極め、売れる急須とはどういうものかということを知っている。
そのマーケティングによって得た情報を生産者に伝えることで、双方に利益が分配されたのだった。ところが、マーケティングによって売れ筋をつかんで大量生産をする手造り品というのは、時代の流れからすると矛盾を孕んでしまったようだ。

 雄峰氏は問屋とはまったく別の筋から販路を開拓して、2代目と共に急須以外の領域にも積極的に進出している。そうした戦略の一環にギャラリーの開設もあるといえよう。買ってくれたお客さんには、かならずお礼の手紙を出すという。作者と消費者との結び付きを大事にすると。
 工芸と工業の違いは、こういう所に行きつくのかもしれないなあと感じた。かつてウィリアム・モリスが進めたアーツ・アンド・クラフツ運動は、量産品イコール粗悪品という時代に対するアンチであった。日本の民芸運動もそれに連動していて、粗悪な量産品が良質な手仕事を駆逐してしまいそうだという危機感を背景にしていたと思う。
 そういう面では、量産品の品質向上は圧倒的である。ただ、どこかで足りないものがあって、それは、とても日本的な味わいといった曖昧な要素と作り手の魅力なのではないかと思われてしかたがなかった。