常滑市民俗資料館
かつて通っていた常滑高等学校が、常滑北高等学校と統合されて学校そのものは、北高の方に移っていった。その跡地を使って5月3・4・5日、クラフトフェスタなるイベントが開催された。

草がのびたグランドが駐車場になっていて、初日は、そこに車がぎっしり詰まるほどの賑わいであった。駐車場の周りにはテント張りの店が並び、かつての校舎の中では作品展示や、まちづくりシンポジウム。そしてバンド演奏などなど、学園祭を思わせる光景が繰り広げられていた。

若手陶芸家の展示など、それなりに面白く見たのだけれど、僕が高校生であったころに感じた驚きを感じ得ないのは、自分がいろんなものを見すぎてしまったからなのか、陶芸の世界が成熟して、もはや目新しさを売り出す場ではなくなったということなのか。
すこし前に書いたウィスコンシン大のアンから作品が送られてきた。高校生の頃の僕ならずいぶん新鮮な驚きをもって見たのかもしれないが、今の僕は残念ながら・・・だ。茶碗もどきの作品については、さすがに黙っていられなくなって「哲学が感じられません。」などというメールを送ってしまった。

そして、茶碗にいったいどんな哲学が欲しいんだ、意味不明!という感じのメールが返ってきた。たしかに茶碗は道具に過ぎないのだが、だったらどうしてそんなに歪めるの?というところが、単なる器に過ぎない。とはいかないわけで、それを日本の異国性として受け入れるのでは、あまりに安直ではないのって思うのであった。
アンと知り合ったのが25年ほど前のことで、まだグローバリゼーションなどという言葉がなかった時代だった。そして、外国の、というより欧米のアートに学ぼう。そこには輝くような新鮮さがあるに違いないと、なぜか信じていたように思う。

クラフトフェスタの会場で一緒に国際交流やってたころの仲間とあれこれ話す機会もあった。みんな同じように後期中年域に達している。いやすでに前期老年期に突入している人も。そして、そろそろ青い鳥を追いかけていたことに気づき始めているのかも。などと考える機会でもあった。