「Ryuichi Sakamoto:Playing the Piano 2022」©2022 KAB Inc.
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現在、ステージ4の癌を患っているという坂本龍一。先日、NHKTVの再放送で彼の今をドキュメントした様子を観た。目に見えて痩せた彼の目は、少し弱々しく虚ろにもみえたが、病を引き受けながら現時点で可能な表現を続けようとする意志は流石だなぁと。

彼が今、最も関心があるのは「音楽の始源」。つまり、単なる音が、MUSIC(音楽)に変わる「ところ=こと」だという。畢竟、表現の始源へと遡行した領域に立ち返って単なる音が音楽へとジャンプする営為に関心が向かっている。これは丁度、パウル・クレーの晩年、難病を患った中で可能な表現を模索した過程で行き着いた「場」に重なる。

「忘れっぽい天使」 クレー
  僕が彼の作品を聴き始めたのが80年代の中頃の『音楽図鑑』からで、当時、六本木のギャラリーでの個展会場でもBGMとして流していた。その後の彼の関心は、音楽というより「音」そのものへと向かい、洗濯機の回る音や、様々な謂わば雑音の中に音楽の原始を追い求めていた様に思う。その意味では癌を患っている今でも「始源としての音楽」を掴まえたいといった姿勢は、一貫して変わらず続いている。これは指向性としてミニマルアートになる。

つまり、日本でいう「もの派」的な立ち位置になるが、この表現は、出力するエネルギーを最小化しつつ成立させることが可能な表現になるので、今の彼の状況にあっては、とても合理的で整合性がある。禅坊主が「点」を一点描くことだけで表現として成立させてしまう指向性に近い。病の中で質を落とさず成立させるとことが出来る表現の極地になる。闘病中とはいえ彼の思考は確かで冴えている。
 
 そして、表現とは何か…、音楽とは何か…といった根源的な問いは、別段病によって減衰する生命力ゆえに行き着いた訳ではなく、究極の問いを持たざる得ない状況になれば、誰しもこの問いを立脚点とした表現を成立させようとするのが自然だ。特段、彼の生命曲線と表現の原点回帰を重ねる必要もない。現に僕自身、この世界に入って以来ずっと変わらずこの問いをつづけてきた。

ただ、この問いは、特に西洋近代思想の洗礼を受けたアジアにおいても、どうしても「侘び寂び」の世界の指向性と同調してしまう傾向がある。欧米で言えば、ミニマルアートになるが、urushi-art.net のcolumnでも触れた様に、アジアにおいては、ミニマルアートの持つコンセプトであるところの「もの」を最小単位まで細分化したところに成立する表現は、「自然」へと行き着く。つまり、アジアにとっての最小単位(これ以上細分化すると意味をなさない単位)は、原子でも分子でもなく、自然そのものを指す。

それは、絵画や彫刻で言えば、欧米の様に正方形や矩形、そして、立方体に単色で着色する表現として結実するが、日本では、それが、「もの派」と呼ばれた表現にみるように、これ以上細分化できないと思われる極小単位は、概念としての正方形や立方体、そして単色といった単位を指向ぜず、それは、まさしく「自然」そのもの、つまり人為を加えない無加工な最小単位になる。

関根伸夫 「位相 一 大地」 (1968年)




李禹煥「現象と知覚B 改題 関係項」1968/2022年 作家蔵=山本倫子氏撮影
そして、NHKのドキュメンタリーのなかで坂本自身が述べている様に、今彼が一番関心を寄せるのが、60年代日本の現代美術界を席巻した「もの派」だということだが、そのことが意味するものは、「死」というものと向き合いながら身体性を研ぎ澄ましてゆくと、彼の場合(日本人の場合)自然そのものへ還ってゆく指向性が、極めて自然な有り様にみえる。それは丁度「もの派」が目指したコンセプトと重なるものでもある。

また、彼はNHKのドキュメンタリーのなかでも、そして、美術手帳の特集「坂本龍一ロング・インタビュー。あるがままのSとNをMに求めて」のなかでも述べている様に、洗濯機の音や、様々な雑音(N)の中に「情緒」や「快・不快」、そして、音の質をみることを繰り返している訳だが、そのことの中身は、一般的に言われる、音楽は「時間の芸術」であるといった解釈とは異にする。そして、彼は美術手帳の特集のなかで、音楽以前の「音とは、ものそのものである」と言っているが、これはとても示唆的である。この発言のもつ意図と意味を、論理立てて述べている吉本隆明氏の『心的現象論序説』の一節をあげてみる。

東京都港区で2020年3月21日、北山夏帆撮影......毎日新聞デジタル版より
(音源であるところの、いわゆる音波を)聴覚が受容するのは、時間的な距離ではなく可聴周波数と波形による振動物体の空間的な性質である。いわば、もっとも発達した感覚と考えられている聴覚は、遠隔化された触覚にたとえることができるものであり、その空間化度は、一定の方向に物体から外延される全空間との接触性を意味している。(『心的現象論序説』より)

そして、坂本の追いかけて来た「音楽以前の音」は、中原中也のいう『名辞以前』にも近く、言葉が言葉になる直前の(音が音楽になる直前の)、ものとひと、そして、ものと事柄に対して、ひとが関係付け了解へと繋ぐ瞬間の事象を限りなく無加工に保持し表出すること、それが名辞以前であり坂本が追いかけて来た、音が音楽へとジャンプ転換するところのことになる。そうだとすると、ここでいう音楽とは、よく言われる「時間の芸術」ではなく、空間の芸術と言っていい。
つまり、吉本さんが言う、時間とは外界と自己との了解性にあり、空間とは外界と自己との関係付にあるとすると、音楽とは、無限に散らばる音を拾い上げて自己と関係付けるところに始源があるはずだ。彼が今、「名辞以前」の音に関心が向いているのは、死と向かい合っていることが一層、音楽の始源とは何かという問いに拍車を掛けている様に思える。

ただ、「もの派」は、先鋭的なコンセプトをもって表現していたので、その意味では前衛に組み込まれると思う。しかし、ポップス界で評価された彼が、難解な前衛へと進まず、メジャーな世界に留まり続けたのは、ある意味マイナーな少数派にだけ支持される「前衛」は、どこか普遍性から外れた自己満足に浸った「関係者だけの表現」として退けてきた訳だが、ここに来てメジャー、マイナーという括りからも解き放たれ、ボーダレスで自由な領域にある「始源としての音楽」という立ち位置にいることはとても自然だ。


Twitter ryuichi sakamoto より
「死」を身近に感じとっている彼にとって、メジャーもマイナーもなく、ただ音楽の根源を指向する意識が、今の彼自身の存在を証明する確かなものとなっているはずだ。そして、音楽に限らず表現するものが、ある「もの」や、ある「こと」にフックを感じるとしたら、そのこと自体、強い関係付け(吉本隆明の言う空間化度)が背景にあると考えられる。ひとが何に関心をもち、何に引っ掛かりをもつかは、ひとそれぞれだが、坂本は、その関係付けによって表出する表現の素材は、まさしく「音」にあった。これは、僕ら、彼の表現の受益者にとってとても幸いなことだった様に思う。

吉本隆明との絡みで言うと「吉本隆明のリフレイン」と吉本さん自身が認めていた、同じフレーズをくどくど繰り返す癖を見事に喩えた坂本龍一だが、この指摘も音楽家らしく優れた耳を通して感じ取った吉本さんのイメージだ。

今の彼には、内なる自然の声を聴きつつ、生態リズムとの同調と共振を終え、生命を維持する動的平衡が解かれるその日まで、表現が続けられることを願ってやまない。
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