薬物乱用と死[編集]

エヴァンスの薬物乱用は1950年代後半のマイルス・デイヴィスとの仕事の頃には既に問題となっていた。ヘロインのために体も蝕まれ、金銭的にも余裕はなかった。1963年、ヴィレッジ・ヴァンガードでの演奏の時、右手の神経にヘロインの注射を刺したことから右手がまったく使えず、左手一本で演奏をこなすという事件があった。これを機にヘロインをやめることになったとされるものの、一時的な断薬には成功しても、晩年まで薬物との縁は切れなかった。

エヴァンス本人のアルバムジャケットなどでは堅く口を結んだ肖像写真が多く使われたが、歯を見せなかったのは、喫煙と麻薬の影響でひどい虫歯になっていたのが一因である。兄ハリーとの音楽に関する1960年代の対談フィルム動画などでは、対話するエヴァンスの前歯がボロボロの状態であるのが伺える。

1970年代後半のエヴァンスは長年の麻薬常用の影響で、既に健康を大きく損なっていた。彼が1970年代前期以降の晩年、それまでのトレードマークであった堅苦しいヘアスタイルや黒縁眼鏡をやめ、長髪や口・顎の髭をたくわえ、スモーク入りの大きな眼鏡という派手なイメージチェンジを図った背景に、健康を損なったことによる顔面の顕著なむくみを、髪や髭で隠そうとする意図があったと中山康樹が指摘している。また1978年11月にビレッジ・バンガードでエヴァンス・トリオのライブを聴いた小川隆夫も「彼(エヴァンス)の体が異常にむくんでいることに気付いていた」と記述している。キーストン・コーナーライブ時点でも、演奏時以外での疲労困憊した様子や、通常ではピアノ演奏が不可能と思われるほどに指が腫れ上がる症状が見られた(残された映像や写真によって、60年代にすでにこの手の異常を確認できる)。エヴァンスの体調を危惧したマーク・ジョンソンやジョー・ラバーバラは、活動を一時休止してでも治療に専念することを懇請したが、彼はそれを拒んでピアノに向かうことを続けた。(Wikipedia)


Waltz for Debby.
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コロナ禍も第二波に入ったようで、ここまでは予想通りの展開になってきている。

先月頭には、連日「斉藤由貴ベストアルバム」を一日中聴きながら過ごしていた。不思議なもので、七月に入ってからというもの、連日ひねもすアルバム「Waltz for Debby」(Bill Evans)に浸っている。


当然、理屈っぽいわたくしのことなのでその理由(わけ)を分析している。五月・六月は、このコロナが一体どういったものなのか、免疫学的にも社会学的にも、そして、経済的にも複眼した視座で視ておかないと、間違った選択というか行動をとってしまう不安があった。言わば、根源的な生存に関しての不安が増大していた時期に重なる。

「斉藤由貴ベストアルバム」以外にも聴いていたが(竹内まりや、忌野清志郎、井上陽水etc)どうしても、このアルバムに戻ってしまう自分がいました。殆どすべてが思春期の心情を詠ったものなので、きっと生殖細胞のDNAを活性化させるというか、生命の琴線に触れるリズムがあるのでしょう。。
今も聴いているのですが、このアルバム「Waltz for Debby」実は、15年程前に息子(長男)に薦められて初めて聴いた。それまでビル・エバンスは、旋律は美しいけど、軟で内容が希薄って勝手に決めつけていた。「お父さん、そういう風に、世間のイメージだけで決めつけて名曲を聴かないのはもったいないよ」と諭された。

なるほど改めて聴いてみると、メロディーの美しさだけではない、音楽の始原ともいえる表現がそこにはあり、痛く反省した記憶があります。

ビル・エバンスというと、リリカルで繊細、そして、ハードなジャズの理論武装もない、その意味ではイデオロギーからは距離を置いているイメージがある。ただ、「ハード・バップ的な頻繁なコードチェンジではなく、モードに根ざしたアドリブをこのアルバムで目指していたマイルス・デイヴィスは、エヴァンスのアイディアを必要としていた」(Wikipedia)とあるので自然体で前衛的な表現をしていたことは確か。
僕はことあるごとに触れるのですが、「表現とは一つの疎外である」という吉本隆明の指摘は、もう一つの氏の指摘「表現とは自己慰安だ」と重ねて聞くと更に深く胸に落ちます。
 ビル・エバンスのピュアでナイーブな曲と生涯薬物に耽溺した彼の生き様の乖離を埋めるには、どうしても上記した表現の解釈が必要になります。つまり表現の出所は、その本人の「才能」とかではなく自身が生まれついて持たされた(持ってしまった)「障害」=「欠損」を埋める作業としての「表現」という理解です。

1970年代、彼は、長年連れ添った内縁の妻(エレイン)を新しくできた女性のことで別れ話を持ち出した後、地下鉄の投身自殺で失っている。加えて1979年幼い頃から彼の相談役でもあった兄を自殺で失い、他にも歴史に残るピアノトリオによる『Waltz for Debby』収録の11日後、メンバーのひとりスコット・ラファロ(ベーシスト)を交通事故で失っている。

そして、彼自身、様々な障害を表現に置き換えることで延命したけれども、結局51歳で亡くなるまでの生の軌跡(=死の軌跡)は、緩慢なる自死の軌跡ともいえる。表現とはそういったものだと思う。 
『Waltz for Debby』を終日聴き続ける状況って何なのだろう.....。

この曲を聴いて退廃的だと感じる方は少ないのではないかと思う。それは、作曲者が、自分自身を救うために表現されたもので、彼自身の抱える「欠損」、「障害」、「非了解」etc 己が存在することの異和を了解へとつなげる営為でもあると思えるからだ。その意味ではぎりぎりに追い詰められた心境での表現といえる。そこが現在の僕らに共振するのではないだろうか。。

「現在の僕ら」には、多くの意味が含まれる。ひとつには、今猛威を奮い、既に武漢型から東京・埼玉型に変異をした新型コロナウィルスの動向。それから(こちらの方が脅威かもしれない)日本のコロナ対策と、現在の感染情報の出し方のフェイクぶりがある。27日の都内の新規感染者が131人、検査数が、それまでの4000人規模から800人に絞ってこれなので通常の値に直すと655人になる。

このことを大手新聞・マスメディアは触れずにスルーしている。オリンピックのスポンサーであることはコロナ禍に在っては致命的だ。その他、コロナ患者を受け入れる医療機関が、経営難に陥るという事態を放置する政府。日本は終わっているなぁと思うが、特段驚かない自分がいるところが微妙。
  明治以降、近代化路線で全てを犠牲にして、ここまで突き進んできた僕らの国日本が、今まさに「がらがらぽん」という状況。福島の原発事故後には、日本が再生可能エネルギーへ大きく舵を切ると思いきや、原発の輸出を志向するという有様に、日本って変われない国なんだなぁとマジ落胆した。今度のコロナ禍も、どこかに同じ轍を踏む日本像が浮かぶ。けれども、今度ばかりは持たないのでは。。

30日の新規感染者数が367人。これも検査数を隠しながらの発表。世界の一日の検査数比較で、日本は、虐殺で知られた東アフリカのルワンダといい勝負をする150位台を競っている。もちろん先進国で最低で世界の七不思議。陽性率も6.6%。こういった状況を報道しない大手新聞・マスコミも戦時中と少しも変わっていない。ということは、僕ら国民も全く変わっていないということと同義。

他人事の様に、怖いもの見たさで、日本の終わりを見てみたくなる。生き残っていれば、まったくシステムが違った社会になっているはず?そして、その時、聴いている曲は何になるんだろう.....。

最後に、今の状況を数週間前に予測し、涙目で検査数の増強を訴える東大先端研の児玉龍彦名誉教授の国会予算委員会での動画を。

皆さまも、出来れば後遺症も酷そうなコロナに罹りませんよう。
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