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故郷(ふるさと)や どちらを見ても 山笑う (正岡子規) ちょっと時期は過ぎてしまったのですが「山笑う」に触れてみたいと思いました。 「山笑う」ですが、元は中国『臥遊録』にあるとされています。中国大陸は広大なので、その景色は様々で一様ではないと思いますが、僕らが見ているような四月の不安定な山肌を指しているのかどうか・・・・。ただ、「笑」という語彙は元々巫女が両手を挙げて身をくねらせて舞い、笑いえらぐ(充足して喜びながら笑う意)形の字を指した。つまり普通じゃない狂った有り様を意味するので、その意味では万国共通の捉え方をしているように思えます。 |
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![]() 殷墟文字「笑」 |
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色々あって気付くと、ここ足利の山肌は、既に「山笑う」時期を過ぎ緑一色に染め上がって風薫る五月を迎えようとしている。なので、上の画像は逗子に住んでいた頃の画像やネットで拾った画像になります。まあ、足利も似たような感じですが。春といっても今日辺りは30度近い気温なので夏日ですね。最近の夏も違った意味で狂ってきているので「笑う」は春限定の代名詞ではなくなっているのかも知れません。 ただ、春に含まれる「笑う」は、命が芽吹く際の自然の尋常でないエネルギーを意味しているような気がします。度々登場いただく白川静の「狂字論」でも触れたように古代では、人が狂うという態を積極的に善しとしていたようですので、その意味でも「笑う」が指すものは、今の吉本興業が演じる「笑い」とはまるで違った態です。 |
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![]() 小俣公園 |
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逆に言うと、今では、社会の方が狂っているので「笑い」で正気に戻しているのではと勘ぐったりするくらいです。 「笑い」で思い出したのですが、鎌倉彫の修行当時、同僚にレコードからテープに移してもらい、よく古今亭志ん生の落語を聴いて笑っていた。特に『替わり目』という演目は、女房への恋慕を表現するのに照れもあって屈折した表現となって悪態をつくという可愛気のある夫婦愛だった。そう「だった」のだ。今改めて聴くと、とてもじゃないがセクハラ、パワハラオンパレードで聞けたもんじゃない。もう洒落にならないレベル。 例えば、かみさんの容姿を酒に酔って「お前なんか鏡台の前で化粧をする柄じゃない。お前の顔は、シャツの三番目のボタンと同じで、あってもなくてもいいんだよ。百万年前のトカゲみたいな顔をして亭主を誑かしてはなりません。」・・・なんていう台詞。これ今ではアウトでしょ。速攻離婚訴訟になります💦 今でも古今亭志ん生は好きですが、『替わり目』はいけません、はい。 |
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最近、「笑い」も時代によって大きく変わるのだなぁとつくづく思います。 話がそれました。 「山笑う」には、本来人間がもつ存在の有り様のキャパに包摂性を含めた寛容性というか、おおらかさみたいなものを含んでいるような気がします。 |
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色々あって更新がままならず、気が付くと季節は風薫る五月になってしまいいました。 ・・・・で、三日土曜日、六年振りにサッカークラブに復帰、宇都宮に近い下野市まで出掛けてきました。心臓のアブレーション施術を受けたあと、三週間程で軽いトレーニングを反則気味に始めていましたが、どの位のパフォーマンスが出るのか不安でしたが、どうしてなかなかの動きでした。いつもの様に右サイドの阿久津さんから滅茶ゃいいボールが来たので縦にトラップしてゴール一直線。ペナルティーエリアにも入りキーパーの位置を確認しつつボールも見ないで右サイドにシュート・・・でしたが、いきなりボールを蹴るトレーニングをしたためか右足に麻痺が出て芝を蹴ってしまいあっさりキーパーにキャッチされてしまいました💦 仕方ないですね六年振りですから・・・・・と自分を慰めてます。はい笑ってやってください。 (^.^)/~~~ |
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そう、山笑うでした。 中国『臥遊録』では、春が「山笑う」、夏が「山滴る」、秋が「山粧う」、そして冬が「山眠る」ということ。秋が山粧う、冬が眠るは分かるとして、夏が滴るとは何を指すのか・・・緑が溢れるように山を覆う様を言うのか。。夏秋冬は、ベタでマンマ。何故か「笑う」だけが人間の感情を表現していて次元が高いというか位相が違っていてとても面白い。 そういえば風薫る五月という表現もいかしている。風を嗅覚の延長線上で感じ喩えるというのもお洒落だ。それは万葉の頃、匂いと色を同義として感じ表現していたことにも似て、人の原始感覚というものは今と違った感じ方を持っていたことが何ともミステリアスでもある。それは、匂いと色を重ねて感じることの妙なのか、さもなくば匂いと色が未分化だったのか訝しくなったりする。 |
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![]() 四万十川のこいのぼり(「四万十ドラマのどらま」より) |
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上の画像は4月28日のものらしいので、山肌は、未だ笑いの余韻が残っている。 そうだとすると、次に来る季節が爽やかな風薫る五月という流れは美しい。 季節は、確実に「山滴る」移ってゆく。そして、「滴る」の意も、今流布されている意ではなく、きっとずっしりと重みのある「濃さ」や「密度」だったりするのかも知れない...... そんなことを、ぼんやり想う春の終わりです。 |
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