Mushikui 厨子の下書きです。



Mushikui シリーズの原イメージは、実際の「虫喰い」ですが、作品を繰り返し制作していると「虫喰い」から遠く離れて、まったく次元の違う構成を進めていることに気付きます。



まず、平面に墨で「書」の様な感覚で当たりを付け、そこから2次元の表現として彫刻(トリマーによる溝彫り)をするわけですが。その際、墨の線の重なりやカスレを凹の高低差や彫り幅の大小に対応させていく。
 
 筆を走らせずにぐっと力を込め踏ん張った線は、凹部を深くし、逆にカスレは線刻の細さで対応している。


そもそもこの表現が、どこから来たのか・・・・・始めは、書のメカニズム沿った表現など全く考えになかった。切っ掛けとなった「虫喰い」の軌跡をなぞるように、幾つかの作品を繰り返し作る中で、自然と”書的”に反応するようになった。
 
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Mushikui -Ju 錫蒔絵
そもそも漆芸の歴史は、その作業工程の多さから失敗を避けるため、綿密に計算され、計画されて作業を進めざるを得ない。それ故、陶芸の様な「偶然性」を面白がる作風は生まれず、大抵が良い意味で生真面目で大らかさに欠ける。例外は、本阿弥光悦の『舟橋蒔絵』と尾形光琳の『八橋蒔絵硯箱』くらいに留まる。



二人に共通するのは、彼らが、漆芸に限定してアイデンティティーをもっていたわけではなく、書・陶芸・漆芸あるいは絵画・漆芸・デザインとマルチな表現スタイルをとっていたことが特筆される。



常に漆芸以外の視座をもっていないと、どうしても堅真面目な決まり切った意匠になりがちな表現領域なので、意識してその自由度を上げる工夫をしないと、漆芸の場合なかなか人の魂に響く表現になりにくい。

『舟橋蒔絵』
 
『八橋蒔絵硯箱』
伝統的な漆芸にありがちな”暗さ”や、”不自由さ”、そして”生真面目さ”から離れ、破天荒まで行かなくても、もっと大らかで自由な、まるで Jazz のアドリブのような表現が成り立たないか・・・・・・

そんな無意識の欲求から生まれたのが 「Mushikui」 と「落書」という表現だった。なので、当初成る可く”構成的”な要素を避けていた。それは、最終的な仕上がりを確定し、想定したなかで徹底した計算の上で完成を待つ表現は、人間の意図を超えた”大切な何か”をどうしても落してしまうのではないか・・・そんな不安があった。



元々、”漆器”は、正月や改まったハレの席で使われることが多い。 特に近代に至ってからは、益々その様式美を由とするとする意図で使われるため、”お約束”としての意匠に固定している。これはこれで立派に、その役割は担っているが、現代の生活空間では、正月やハレの席の意味合いも演出の仕方も大分違ってきているので、”今”に必ずしもその意匠がフィットしているとは限らない。

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前近代では、中国文化を中心に据えて回ってきた日本だったが、近代化以降は、好むと好まざるとにかかわらず西洋化を受け入れざるを得ず、それに連れて生活のスタイルも西洋化して行くとき、それまであった様式美だけで成り立った儀式や持て成しも変容を迫られ今日に至っている。漆器も例外ではない。



暫く前、盛んに婦人雑誌が”〜家のお正月”といった企画をうっていた。如何にも由緒ありげなお家柄の伝統的な行事の披瀝で、バブルに踊った”お嬢様ブーム”から繋がる流れで「日本ブランドここにあり!」といった風だったが、ここに来てその熱も冷め、足元を見るとリアルな現実がそこにはあり、結局僕らは仕切り直して”今”のお正月やハレの空間演出は、どうあるべきか提案し直さなければならなくなった。
 
『落書き錫研折敷』.............下書き
  僕自身は、幼い頃から伝統的な様式美に魅せられていて、高校を中退して職人の世界に飛び込もうと色々調べたこともあったくらいだった。いろいろあって、この世界に入ったが、伝統を受け継ぐだけでは、結局のところ伝統そのものも衰退してしまうことに気付くのに、そんなに時間は掛からなかった。そんな経緯もあって「東洋と西洋の統合」、そして「コンテンポラリーな表現とは」というテーマを追うようになる。



上の画像の『落書き錫研折敷』も、そんな僕の周りの風景に沿った今の表現とは・・・・・といった問題意識から生まれた意匠だ。今、六本木で元気なフランチレストランからのオーダーで仕上げを急いでいる。今年フランスで開かれた”世界の50人の料理人”に、日本で唯一選ばれたと聞いているので、ご本人の経営するお店でこの『落書き錫研折敷』が使われることはとても光栄だ。



そして、この折敷もそれなりに時代に沿った伝統美とコンテンポラリーな意匠を併せ持つものとして受け入れられているのかな・・と嬉しく思っている。
 
「Mushikui 」に戻ります。始めた頃は、自覚的ではなかったのですが、漆芸表現に乏しい、偶然性を取り入れることを主眼に始めたMushikui シリーズですが、アドリブを主な表現として展開すると、どうしても良いときは良いのですが、外したときに面白味に欠けるものがどうしても出ます。それ故、いつも安定してある密度を保証できる表現を求めるようになります。



従って、ここ数年そのベクトルは、外へ外へと解放することから、内側を穿つように志向する方向へシフトしてきているように自分では思います。そうすることで偶然性を狙ったが故に外してしまう危険を回避できます。なので自由度は落ちますが、その代わり作品の密度は上がります。
「Mushikui 」を手掛けて、もう30年近く経ちました。そして、年々進化しているように思います。手の内に入った作業なので、時間の経過とともにその狙いは、「自由度」「偶然性」から、「密度」「完成度」に移ってきているようです。

ただ、墨で描いた筆跡のトリマーによる彫刻は、その時その時の閃きでアドリブを利かせて、ちょうど碁を打つ感覚に近いようでもあります。つまり一箇所の加工が、全体の構成に影響を与えるので、いつも全体を有機的に眺めながら作業を進めています。



今ちょうど『Mushikui 厨子』を手掛けていますが、厨子の流れが所謂『仏壇』として仏教を中心に据えて作られて来た経緯があるので、その中に仏性を見ようとする向きもあるかと思いますが、僕の厨子に関しては既存の宗教色を廃したところで制作してるので、無意識に沈殿した意図していない仏性はあるかも知れませんが意識して仏性を演出する意図はまったくありません。逆に日本仏教を更に遡り、原始の宗教の持つプリミティブで始原的な精神性に出来ることなら限りなく近付きたいと願って制作しています。



幸運にも、この制作意図を理解して頂いた方の中に、クリスチャンであるにも拘わらず『蓬莱厨子』や『古文字厨子』を希望する方が居られるので、それなりに僕の制作意図が伝わっているようで嬉しく思っています。
 
 
「意匠」とは、ものの表層を飾る単なる柄ではなく、もし、それが時代を捉えているとしたら、それは時代を象徴するメタファーであるはずです。「意匠」とは、そのくらい重いものだと考えています。




僕の厨子が、あらゆる既存の宗教を超えてニュートラルに使われることを願いつつ、これからも「今」をしっかり掴んだ厨子を作り出せるはずだ・・・と夢想するW−CUP 真っ直中の梅雨の晴れ間であります。。。