当時、鎌倉彫業界全体での年間総生産高は約1億5千万円(総従業員は約350人.......「日本漆工 No.346号より」)。これは、小さな会社一社の年商程度のものでした。

経済産業省のデータによると、漆器製造業全体でみると、出荷額のピークは1993年の1599億円従業員数は1988年の19,954人で、以降減少の一途を辿ります。

漆の国産、輸入量の推移を見ると、1970年代から1980年代は、国産が年間6トンから4トン、輸入が400トンから300トン台へと減少します。

その後、バブルを経て2000年以降、国産は1トン台、輸入量は100トン前後で推移している。主な輸入先は、中国。
(2005年 経済産業省資料より)

古典椿紋香合・・・・お世話になっている上野西光寺さんへ奉納物







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30年程前、僕は鎌倉彫の世界に見切りを付けた。その訳は幾つかあったが、入門した工房に暖簾分けもなければ、作家として自立した者もいなかったことが大きかったかも知れない。
先輩への肩たたきも始まり、一時の鎌倉彫ブームも凋落の兆しが見えた。加えて、通産省(現在の経済産業省)の「伝統的工芸品産業」指定のための訓練校の卒業生の受け入れにも、業界内で汲々;;;といった風景が日常化していた(結局、訓練生の受け入れも7か8期で終了)。

当時の僕自身は、社会の状況がどういったものか大した情報も関心もなく、「明るい未来はなさそうだ・・・」位の感覚が頼りだった。同期の連中は10人くらいいたが、今でも残っているのは一人きり。あとの者は、各自アマチュアの教室を細々と運営するか、さもなくば転職ということになった。

業界の未来が暗いことは事実だったが、だからといって自分の未来が明るく開けていた訳ではなかった。

(『砧音』..........1976 年日本現代工芸美術展初入選作)

薄給の身だったので、良い材木が買えず建築材を利用しました;;;
安価でしたが、当時は柾目でピンクがかった肌の綺麗な木材でした。
初入選したことを亡くなった親父がとても喜んでいたのを覚えています。

僕はもともと、工作や修理などの手作業は、三度の飯より好きも知れない。。。でも、漆の作業に関わるだけでは、大袈裟に言うと実存が満たされなかった。なので、当時の自分は、新しいものを生み出すことに、それこそ命がけで関わりたいと本気で思っていた。

鎌倉彫業界全体の動向は、お稽古産業としての地位確立(これは決して間違いではない)と延命に躍起になっていて、新しい時代に向けた、新しい作品を生み出そうという機運は、ほとんど伝わってこなかった・・・・。

(『正と負』..........1977年?作
これも建築材でした;;;途中で放り出していたのを、先輩の竹村さんが見つけ「これは、ちゃんと仕上げたら良くなるよ・・・・」と励まされ仕上げました。今もそのことを感謝しています。 残念ながら、この先輩は、28年前に42才で癌で亡くなってしまいました。  合掌

(28年程前に興した、室町時代の古典文様の再生図)
この後僕は、無謀にも作家を志し、荒海に漕ぎ出してしまいました;;;

初めての個展が、青学の高等部裏門前にあった『工雅』さんでした(一昨年、店を閉められました)。こちらで3回ほど個展をさせていただきました。

(鉄刀木を使った箸置き.............1981年『工雅』にて)
鎌倉にいると鎌倉彫の老舗出身であることは、多少のメリットがあったかも知れません。しかし、都会に出ると鎌倉彫は、「ああ、あの下駄とかの・・・・」といったイメージをもたれる程度。ましてや、漆芸界では、ただの下手物で継子扱いです;;;。そう言った事情もあり、作家を目指していた頃は、キッチュで趣味の悪い「鎌倉彫出身」であることを極力出さないように気を使っていたように思います。中央では、鎌倉の老舗にいたことなど、「屁の突っ張りにもならない」ことは嫌と言うほど思い知らされていたので・・・・・・・。

でも、いつか、きっと、このダサイ鎌倉彫を、思いっきりモダンで洗練されたスタイルとして再興させてみせる..................と無意識に誓っていました。

舞台を六本木に移した頃、今にして思えば日本は、まさしくバブルに向かってまっしぐらだったように思います。コムデギャルソンの様なストイックなスタイルがベイシックなものとして定着し、一方でポストモダン(既製の様々な要素の繋ぎ合わせ)へと時代は突入していきます。(つづく)









(SAVOIR VIVREでの初個展DM...........1984年)