![]() 2012 川崎 |
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お正月の四日、今年最初のサッカーソサイチ(8人制サッカー)をしました。右足の麻痺を抱え上手く塩梅しながら騙し騙しやったところが良かったようで、何とハットトリックです♪ チームの新年会の前に川崎幸町の女体神社にお参りした御利益でしょうか・・・・。 川崎駅西口の再開発は見事で、今時のショッピングモールや近代的なビルが以前の”公害の町川崎”のイメージを一掃しています。 まっ、僕自身は東口に残る昔の川崎の香りが好きですが。。 |
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![]() 川崎駅西口ラゾーナ横 ![]() |
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夕暮れのビルと町並みに向けカメラを振っている僕を、皆さん怪訝そうな顔をして横を通り過ぎていきます;;; そうなんです、この画像は、被写体にカメラを向け大きく動かしながらシャッターを切ることを繰り返す中で偶然生まれる画像の面白さを拾ったものです。動かす幅と速度を塩梅しながらシャッターを切るわけですが、どの様に撮れているかはシャッターを押して画像を確認するまで分からない訳ですが、慣れてくると結構面白いです。予期しない画像がのこるのでモニターを確認するまでドキドキものですが、そこが楽しいです。一度お試しあれ。 |
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昨日の昼飯時、偶然CATVでドナルド・キーンが日本の美について講義している番組に出っくわしました。特に日本工芸に関して触れた箇所がとても面白く、なるほどと思えるところがありました。それはこういった内容でした・・・・ 西洋を代表するギリシャの美は、きちんと整った均衡のとれた「かたち」を好み、日本の美は、少し形の歪んだ、あるいは崩したものを好む。それは人間の死生観にも反映し、ギリシャは、死=形が崩れて行くものとして忌み嫌うが、日本は死=無常として受け入れ、命あるものは、やがて終わりを迎え、そのことをある意味美しいと捉える・・・・。 多少美化し過ぎの嫌いはありますが、そう外れてもいないようです。 こういった有り様は、何もものばかりではなく「ひと」についても同じ様なことが言えそうです。例えば日本には古くは、福助というキャラクターがありました。そう福助足袋の福助です。その福助は、今で言えば奇形児で背が異様に小さく、耳たぶは異様に大きく生まれた実在した人です。その福助は商人になり、働き者で大金を残したところから「福を招く」福助として神に近い存在として崇められるようになったといいます。 こういった事例は、他にもたくさん見られます。日本には間引きといった忌まわしい子殺しの事例も少なくなかったわけですが、反転して奇形児を神に近いところまで押し上げて許容するということも少なからずあったようです。それは奇形を奇形だからというだけで排除することなく、希に神に近いところまで昇華させて許容するという行為でもあります。 |
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儚い命や死にゆくものを「無常」として美しく感じる感性は、パッと咲いてパッと散る桜に象徴されるように、確かに日本人は普通にもっている感性です。ものの哀れを美しさとして感受することは、僕ら日本人にとって珍しいことではありません。それが証拠に、未だに春になると演歌からヒップホップに至まで「桜」で溢れます。世界でトップクラスの水準にある花火にも同じ事が言えそうです。 僕らは儚いものを弱さとは感じません。そして、短い命を劣性とも解釈しません。それを、キーン氏は、日本人の美意識だと仰っていました。納得です。 欧米とアジアの紋切り型の比較文明論は、確かに陳腐です。そして、侘び寂を分かる欧米人も沢山います。それでも環境つまり風土が違って生まれた人間は、当然異なった環境で育った人間とは違った感性をもつと考えるのは自然です。そして、そこで培った感性や美意識を大切に保持してゆくことは大切なことでもあります。差異あるいは差違は、そのことだけで価値があることです。 |
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ここへ来てドナルド・キーンさんが、TV報道などの露出度が高くなったのには訳があります。それは昨年の震災を契機に、彼自身が震災後の日本の風景を見て期するところがあり、日本人に帰化することを決意したところにあります。危機的な日本の状況を見て、そんな日本に対して未だ出来ることがあるのでは・・・・帰化を表明することで沈んでいる日本人にエールを送れるのでは・・・・。そんな風に思ったように思えてなりません。この雄々しい態度はとてもアメリカ的だと思いました。 その意味で先の震災は、色々なものを炙り出してくれました。日本の優れたところもダメなところも、総て露わにしてくれたものと思われます。 そして、同時に「日本とは何なのか」本気で考えなければならないことも震災は僕らに突きつけました。今年は、この先に待っているだろう厳しい状況に対し、日本のリソースを総集結してこの難関を超克していかねばと僕自身は肝に銘じています。正しく全面展開全面突破の覚悟でしょうか。 灯り、そして光。どうしても僕らは、反射として網膜に至る刺激に対して敏感に反応するように出来ている。特に闇の中の灯りや光には”飛んで火にいる夏の虫”よろしく目を奪われる。 さて、今年は日本の闇・・・じゃなくて未来に光は射すのでしょうか。。確かなことは、「絆・絆」と叫ぶだけじゃ埒あかん・・・ということで、宮台の言うように「任せて、その後ダメなときはブーたれる」ことから、自分が先ずそれ相当分を引き受ける・・・ことを肝に銘ずることから始めなければ、それこそ埒あかないようです。 それでは、灯り・光ということで、、新年早々の常滑レポートに投稿頂いた中野館長の動画をここに紹介して「光」のテーマの幕とします。 何の灯りかは、常滑レポート「一区切りの正月」でご確認を!(........巻末に答えがあります)。 |
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