クリス・ボッティーもウィントン・マルサリスも Jazz じゃない・・・・と息子は言う。


Jazz は、既視感があってはダメだというのがその理由。



「二十世紀のアート特にモダンアートは、今までに存在したものの片鱗さえあってはならない」・・・・・確かにモダンなものが評価された時代は、このようなコンセプトでアートシーンは猛進していた。それは音楽も美術も文学も全ての芸術が同じ土俵にあったとおもう。


それが「終わった」と思えた瞬間を今でもよ~く覚えている。     それは、80年代初頭のある日、国鉄・・・いやすでにJRになっていたかも知れない・・・・に乗って車内の中吊り広告「 from A 」を見たときだった。。
 
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「空間概念」..........LUCIO FONTANA 
そう、当時飛ぶ鳥を落す勢いで「アルバイトニュース」を蹴散らして登場した RECURUIT の就職情報誌?「 from A 」の表紙を、 僕の大好きだったルチオ・フォンタナよろしく「A」とカッティングしたのだ。


これでモダンアートは終わったと理解した。つまりファインアートを商業美術が飲み込んだ瞬間だった。

「資本主義ってすげ~な」とこの先にバブルが来ることも知らずに、唯唯日本っていけてるなーと単純にも高揚感に浸っていた。


最早モダニズムの渦中にあったときのような構造的に”新しいもの”は生まれなくなった。つまり、様々な断片をくっつけて構成することで生まれる「新鮮さ」だけが頼りとなるポストモダンの到来だ。この中で生まれる”ものたち”は、すべて「とこかで見たことのある」既視感に覆われている。モダンの中で生まれてその洗礼を受けた者には、どこか胡散臭い焼き直しと言おうか、そのなかに根本的なパラダイム転換がないと言おうか、そういった閉塞感の中に入って出られそうにない焦りのようなものを感じ続けるようになってしまった。


モダンとは、拠って立つプラットホームそのものを新しく提案することだったので、ポストモダンが、いかに「なんでもあり」のダイナミズムがあるといっても、何かもの足りなさを引きずってしまう。それは、ビートルズをリアルタイムで体験してしまった者が、あとに続く音楽シーンすべてがパワー不足のような深みのないスケールもない、こじんまりとした音楽に聴こえてしまうのと同じだ。
 
























「楠真鍮象嵌 Bann 」..............まだ未完成です
 
個展間近なので、ちょっとずつの更新です。。  
 
white gallery ......鹿児島
 
 もう Jazz は終わっちゃったんだろうか・・・・・


お前の言う意味では、残念ながら Jazz は終わったんじゃないか。


じゃぁ、あの斬新で手を抜かずに攻めまくる Jazz は、もう聴けないんだ。。


Nummmmnnnnnn..............もはや聴いたこともないような音楽が登場するとしたら、それは社会の基底を支えるエネルギーが、化石燃料なんかじゃなく、まったく違ったものに代ったときに、それまで聴いたことのない音楽や見たこともないアートが生まれるんじゃないのかネ。。←これ僕の持論です。
 そして、先日神奈川新聞の書評に中沢新一の『日本の大転換』が紹介されていて面白そうなので珍しく市内の書店で購入した。そこには、僕の持論とまったく同じ「エネルギーと文化そして社会」の相関関係が述べられていた。
 














































落書を終えた真鍮板
現代社会を支えるエネルギーは、石油中心で回っている。



石油という化石燃料は、もの凄い優れもので、現在までのところこれに代る素材はない。それはエネルギーを賄うものとしてだけでなく繊維やプラスチック、そして洗剤等、僕らの日常を彩る生活用品全般に使われている万能な素材なのだ。今後これに代るような多様な使われ方をする素材が見つかるとは思えない。


そして、石油の塊ともいえる今の車だが、僕はデザインからいって、とっくの昔にそのピークは過ぎていると思っている。デザインはその時代を表象しているので下の画像にあるような今の車は、滅茶苦茶”目”が吊り上がっていて、やたらヒステリックに見えて好きになれない。日本国中目を吊り上げて、そんなに急いで何処へ行こうとしているのか・・・・・。
 









 
こういった今の車のデザインを見るにつけ”化石燃料を燃やして爆発させ、そのエネルギーを動力に替える”構造を変えない限りウットリするような車は出てこないのでは。。そもそも内燃機関の中身はお粗末で、ほとんどが熱に変換されている。動力に変換する構造もピストンの上下運動を回転運動に変え(この時点で相当のロスが出る;;)それを幾つものギアーとシャフトを介してタイヤに伝わるまで可なりの摩擦がありロスしている。



そもそも一つのシリンダーでは車は動かないので四気筒なら4つ、六気筒なら6つのシリンダーが上下運動している。それも複雑に気化したガソリンの爆発によって。また点火プラグに電気が伝わるまでに高圧に変電しなければならず電装系だけでも何十冊の本が書ける位複雑な構造だ。高速時のプラグ点火は8000回転で1秒に67回になる。0.015秒毎に1回点火することになる。狭いシリンダー内でもガソリンが燃え広がるのにタイムラグがあるので一言に点火と言っても調整はもの凄く複雑だ。

あっ、ちんぷんかんぷんで読むの止めたくなりましたか;;;  いえ、そのつまり内縁関係じゃなくて内燃機関は無駄の塊だということです。そしてデザインが詰らなく見えてきた言うことは、ガソリンエンジンの時代はもう終わっているということでもあります。デザインとしては、ぎりぎりローバー ミニまででしょうか。。



そこで登場するのが電気自動車です。この構造は無茶苦茶シンプルです。内燃機関でないので爆発はなく熱も出ませんからラジエータなどのエンジンを冷やす機関は要りません。これだけでも助かりますが、当然排ガスを浄化する機関も要らずマフラーも消えます。ここは古い車が好きな僕にとって寂しいのですが;;。そして、多くの伝達機関が要らなくなり、よって軽量化します。

となると、デザインは大きく変わります。



石油文化を象徴するのは、アメリカを中心とした資本主義の中で開花した自動車産業が最もシンボリックなものといえます。フォード社が、世界で初めてベルトコンベアーで大衆車を大量生産し始めたことも今では懐かしい記憶となってしまいましたが、そこで使われていた自動車の塗料を使ってドロッピングという手法を生み出したのがアンフォルメルで名を成した アクションペインティングの代表者ジャクソン・ポロックです。
 










Jackson Pollock..............Dropping
 
資本主義を効率的に推進するには、石油という素材かつエネルギー源を抜きにしては考えられません。そしてこの石油という資源は、もちろん有限で、いすれ枯渇することは分かっています。



話は跳びますが、20年ほど前から吉本隆明さんは、しきりに、これからの世界には「贈与」という概念を入れないと世界の平等化は進まないと繰り返し述べていました。それがないと先進諸国を含む世界全体の不安定化を助長するとも言っていました。つまり、自助努力では最早アフリカなどの貧困国は自立できないので、そこは先進諸国が「贈与」という概念を持ってアフリカなどの後進国をサポートしなければならない・・・という意味です。

考え方としては分かるのですが、崇高すぎて凡人には無理だろ・・・と以前は考えていました。でも、中沢新一が言うように、太陽光をエネルギーとする有り様は、「太陽」というほぼ無尽蔵(正確には、後50億年ほどの寿命)のエネルギーを僕らは一方的に「贈与」される構造だ、と言っています。この真意は、吉本さんの言う「贈与」という概念と重なります。



 30年前中沢新一は、「吉本隆明は、もはや脳軟化症だ」と唱え、一方の吉本さんは、負けじと「頭の先から真っ赤な塊が出て空を飛んだ」・・・と『チベットのモーツアルト』で密教の修行当時の話をする中沢さんを「あいつは大嘘つきだ」と論壇で喧嘩した中です。しかし、ここ数年の彼らは、お互いリスペクトしあっているようで「80年代の吉本さんの経済理論は、今読んでも当を得ていて逆に輝きを増している」と中沢さんは吉本さんの超資本主義論を高く評価しています。


何を言いたいのかというと、石油というエネルギーを基盤に据えた社会では、中沢が言うように、数億年も前に地上に降り注いでいた太陽のエネルギーが、化石化されて蓄積された石油・石炭は、元々は太陽からの「贈与」だったものなのに、あまりにも時を経ているのでそうイメージ出来ずに単なる「交換可能な商品」と考えられてきた。こうした姿勢を核にすえて資本主義は回ってきた。
 
<今日のムロ>


錫を蒔いたばかりのところです



















彫刻部を白檀塗りに・・・・錫を蒔いたところ


















象嵌を済ませた「楠古典紋彫り Bann」
 

腐蝕が進んでしまった『はーと落書小厨子』








緑青部を化粧直しした『はーと落書小厨子』
  
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これからが重要なことに触れるところなのですが、個展直前で落ち着いて書き込みが出来ません;;;要するにマルクスの言うように「下部構造が上部構造を規定する」ということは当たっていると思います。それぞれの時代を根底から支えるエネルギーが、その恩恵にあずかる人びとの全てに強い影響を与えるということ、つまり表現全般も例外ではなく、どの様なエネルギーによって世界が成り立っているかによって、そこでの表現も決まってくると言うことが言いたかったのですが・・・・。



ものすごい理想を追いかけているようにみえますが「太陽光」は、昔から人類がその恩恵にあずかることで世界を回してきたエネルギーです。そういった「再生可能エネルギー」を、今まで獲得してきたテクノロジーと組み合わせて新たな社会を構築する方向性の中から、きっと新しいアートが生まれるものと思われます。


舌足らずなので、この後は「続・新エネルギーがアートを変える」にゆずります。


請うご期待。。
   (朝と夜が引っ繰り返っちゃっている東でした~)

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