予告通り、今回は「鎌倉彫」について触れたいと思います。


そう言えば、自分の出自である鎌倉彫について、あまり真正面から触れたことがありません。その訳は、自分にとっては鎌倉彫の出だということが、自明であるということからなのかも知れません。加えて、凋落著しい伝統工芸にあって、もう百年も前から近代化の中での工芸の同じ課題を背負い続け今日まで来ているということに、ある諦めのような感情を持っているからかも知れません。


とは言っても、鎌倉彫とは何か、そして、そもそもコンテンポラリーな鎌倉彫は有り得るのか・・・・といった課題から離れて自分の仕事を進めることは一時もなかったと思います。


◆「作家は処女作に向かって成熟しながら永遠に回帰する」(亀井勝一郎)


とても含蓄のある言葉で正に至言です。
 
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「琴爪入れ」








僕が鎌倉彫の世界に入ったのは25歳を過ぎていたので、この世界でものにならなかったなら全てを諦めて公務員にでもなろう・・・・・と、悲痛な覚悟をもって鎌倉彫宗家「博古堂」に入門しました。(今と違って高度成長期だったので公務員になることは、そう難しくはありませんでした)。

5時半に仕事が終わったので、そこからが自分の時間になり、先ず刀研ぎから始まり基礎的な刀法、スケッチなど美大出身ではない僕は、とにかく毎日朝の4時まで美術と工芸の初歩的なトレーニングを続けていました。ほんと形振り構わずでしたから、入門して二か月後にあった業界の鎌倉彫創作展であっさり受賞しました。それが上の画像にある「琴爪入れ」です。未だ漆の技術を習得していなかったので摺ウルシで仕上げています。

確かその頃、四六時中眺めていた美術書にあった薬師三尊像にぞっこんで、その肌合いに似せセピア色に仕上げました。








上の画像は、翌年受賞した作品(盆)と同じデザインのお重の蓋部です。現物は盗難にあって残念ながら手元にありません。当時一目置いていた先輩が、ザッキンやヘンリームーア等の-空間(凹空間)に強く関心を持っていたことで、僕も凹みの豊かさという矛盾した概念に魅かれました。その影響から、凸という彫刻表現ではなく、凹という空間の妙を深めたいと暫く凹空間ばかり追いかけていたように思います。










Ossipzadkine
近代化に向かう中で、世界美術の潮流はキュビズム、そしてモダニズムへと向かいます。鎌倉彫に引き付けて言うと、近代化は「死」を意味しました。と言うのは、僕らの国日本が近代化を決断した時、そのエネルギーを集中するためこれからは神道に一本化し、廃仏毀釈という仏教界にとっては厳しい現実を選択した訳です。お蔭で鎌倉彫の先輩達は、当時仏師でしたから一気に職を失うことになります。仕方なく妥協策として、それまで培ってきた技術、特に装飾的な技法を工芸に転用して延命を図ります。



近代化とは、ざっくり言うと経済合理主義ですから、鎌倉彫の様な装飾を主とした、謂わば装飾過多な表現はその対極にある表現になります。手間賃を考えずに済んだ前近代の工芸なので、時代に置いてきぼりになるのは自然な流れだったでしょうか。


それでも僕が鎌倉彫の世界に入った頃、博古堂は業界の中では最も近代化を自覚していた職場だったと思います。先輩たちは必死に「鎌倉彫」に「モダニズム」を組み入れようといろいろ試みていたように思います。中でもキュビズムは”近代的な鎌倉彫?”に親和性が高く、摸刻に近い感覚で西洋の似たような作品を先輩たちはコピペしていました。

「正と負」.......1976年
僕はと言うと、好きな仏像を中心に、日本の古典美術と西洋の近代美術の間を行ったり来たりしていました。休み時間も惜しんで、工房の棚にあった美術全集を穴のあくほど繰り返し読み耽っていました。形相が危なかったのでしょう、ある日オヤジ(=社長のこと)は全集を引き上げてしまいました;;;(ケチ!)


実際は、オヤジさんはケチではなく、近代美術館や野点の茶会の招待券を頂いたりしました。感謝。ただ、僕らが西洋のモダニズムの流れに染まるあまり、本来の鎌倉彫から離れていくことを危惧していた様にも思います。鎌倉彫の出自は仏師なので、純粋な工芸から本来の「彫刻」へ向かうのはある意味自然でした。そして、彫刻はファインアートなので工芸をどこかで一段低いものと考えていた節もありました。


事実、彫刻と言うファインアートを制作していた方が自由度が高く楽しいのです。工芸の様に、ある縛りがある中でものを作る面白さがあることを知るのは、大分後になってからでした。

蓮文碁器
鎌倉彫だけでなく、伝統工芸が生き残るには「ブランド化」=「付加価値化」しかないわけです。生産性が低く手間ばかり掛かる伝統工芸の課題は、僕が入門した当時と全く変わりません。鎌倉彫の業界で、この課題をクリアする力と質があったのは博古堂を除いて他にはなかったと思います。それは、38年前から気付いていたことでした。残念ながら、当時も今も「お教室」で回っている業界なので、世界に出して恥ずかしくないブランドとしての鎌倉彫を指向する機運は今もないと思います(35年ほど業界には関わっていないので詳しい流れは分かりませんが)


当時は、今と違って日本の総人口も多かったし、鎌倉彫のお教室に入られる方も多かったことが、厳しく険しいブランド化への道を選び辛くしたとも言えます。業界にはピーク時に400人近い従業者がおり、その生活を滞ることなく回してゆくのは難しいことなので、お教室の充実に全力を注いだのも無理もないことだったのかも知れません。


僕自身は、何か違うよな~・・・・と悶々としていましたが、それを話して分かり合う同僚や先輩は皆無でした。仲間同志て勉強会なども開いてはみたものの古典の摸刻をするのが精々で、真の鎌倉彫の未来を見通そうといった気概のある関係者も見つからず、結局結婚を機に退職。それまで只の一人も作家になった者がいなかった業界にあって、無謀にも作家になるべくスタートを切りました。
今回、SAVOIR VIVREのオーナーが鎌倉彫の業界に招かれ、gallery運営のこれまでをお話ししたということを受け、何だか懐かしくなって今の鎌倉彫の状況はどうなっているんだろう・・・・とネットで色々調べてみた。そうしたところ、業界に木地を供給していた三大木地屋さんが廃業したとあった。そのうちの一つは、僕も何度か利用させてもらった鎌倉にあっては腕の良い木地屋さんだった。僕の記憶では、大きな木地屋さんは三つしかなかったはずなので、そのすべてがなくなったことになります。ちょっと隔絶の感があります。

伝統工芸の産地は、どこも厳しい状況にあることは承知していましたが、お教室で回っている鎌倉彫の業界も例外じゃなかったんだと知りとても複雑です。

企業の平均寿命は30年ということらしいので、どの世界も30年経つと大きく様変わりするのが自然なのでしょう。

1976年 漫画家志望の玉ちゃんと、妙本寺境内にて
鎌倉彫の世界は、云わば吹き溜まりの様な場所で、普通の路線に乗れなかった輩が行きつくところだったので、どこか変っている人間が多く、その意味で結構面白い奴がいました。朝、工房の出入り口に砂山を盛り、そこに水を掛けている奴とか、曜日を間違えて日曜日に出勤する奴とか、生まれてこの方歯を磨いたことのない奴とか色々でした。

そんな風に、平気で人に弱みを見せていることが許されるというか、半分自慢している風でした。若くて皆コンプレックスを持っていましたから何とも居心地が良かったのです。

僕が一番面白い奴だな~と思ったのは I 君で、後に二人で株式会社を設立することになります。


つづく。

1978年.........伊豆にて同僚と
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