歴史的新年の閃き  
常滑レポート index
01/09 歴史的新年の閃き




2005~2010 常滑レポート index
 冬至の頃から日没が徐々に遅くなり、太陽の蘇生を感じるようになる。寒気の流入はむしろ増大しているのだが、陽光の力強さを感じることで、この先に来る春を予感でき、寒中をやり過ごしていけるのだろう。

 暮から正月にかけて父親の喪中でもあり、老母が一人暮らしとなったこともあり、さらには子どもたちが成長したことなどもあって、新年の迎え方が大きく変わってしまった。

 大きな仕事をかかえての越年でもあったのだが、それらを差し引いたとしても暮から正月にかけての非日常性は年々薄れていくと痛感する。コンビニやスーパーの元日からの開店といった現象の裏側にある既存の権威や規範の風化と連動しているのだと思う。
 そして、かつて実体として存在するかに見えた権威や規範が実は虚構でしかないということが透けて見えてきてしまう現実の前で、経済活動こそが優先されるのだというのが21世紀前半のこの国の形なのだろうと。

 そんなことを考えながら、いつになく近場の神社に初詣をしている自分がいるのだからこれまた不思議というもので、毎日のようにスーパーに買い物に行くときに通過する住まいの近くにある熱田社と諏訪社、実家の村の産土神である神明社と中学生のころによくトレーニングに出かけた隣村の多賀社だ。
 郷土史も飯の種にしている僕としては、そこらの氏子諸氏よりはるかにそれぞれの神社の存在する由来を知っているのだが、信心のようなものとなると希薄なのだと自覚している。それでも尚、この様に足が向くのはどうしたことなのだろう。

 息子の受験などということでもない。いや、まったく無いとも言い切れないが、それよりはむしろ還暦が近づいてくるという、それだけこの国の空気を長く吸い続けてきたことが原因であろうと思われるのであった。

 そして、その空気の中には窒素や酸素と共に歴史素が含まれているというのが、今年の正月のひらめきだ。国の歴史であり、地域の歴史であり、家の、家族の、個人の歴史素がそれぞれの土地の空気に微量ながら含まれており、それは否応無く体内に蓄積されてしまうものだということであろう。
常滑市民俗資料館




 日本人が13年にわたって毎年3万人もの数、自殺するという現象だって切腹して責任をとるという過去の歴史的習俗が、この国の空気の中に含まれているからと解釈すれば納得できるのではなかろうか。だからといって自殺によって身内をなくした親族の不幸は解消されものではないが、おそらく武士の成立とともに形成された歴史素が消えるまで容易に無くなるものではないと覚悟しなければならない。

 そして、それが無くなる頃には日本の美も工芸も随分様変わりしてしまうという予測ができるのだが、これはまた困ったことでもある。日本の美の多くは武士の登場とともに形成されたものなのだから。などと考えてもどうなるものではない。歴史は変わるべくして変わる方向に変わっていってしまうものだと諦観することにしよう。
 
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神明社への初詣の途次、いたち君と目が合ってしまったので記念撮影。

今年もよろしくお願いします。
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