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カズオ・イシグロ

恥ずかしながら、まったく読んだことのない作家だった。

もともと、普段小説は読まない方なので知らなくて当然なのだが…。それに、ここ数十年芥川賞にも全く興味がなかった。ただ、昨年のノーベル文学賞にボブディランが選ばれたのには、ちょっとした衝撃を受けたくらい。

TVでニュースを観ながら食事をとっていたところに飛び込んできたニュースで、観るともなしにみていたところ、「現実と幻想を行き来しながら、一つの物語の中に幾つもの物語が入り込んでくるといった文体」というところに惹かれた。そして、小説で伝えたかったことが「人生は短い」ということと、先の戦争で翻弄された、不本意にも加害者になった名もない人々の胸中を察する感受性にもシンパシーを感じ是非読んでみたいと思った。他の文学者では、こういった共感を持ったことがないので、極々少ない貴重な知人を得たような心持でいる。
このところ修士論文に行き詰っていた。というのも、何故自分の関心が「知的障害者アート」にあるのか、何故いま知的障害者アートなのかの説明に、どうしても人間にとって「表現とは何か」を合わせて論述しなければならないからだ。

僕の中では、この道に入ってここ四十年、「表現とは一つの疎外である」という吉本さんのキーワードと、表現とは「自己表出」と「指示表出」であり、その心的領域は「自己幻想」という構造を持つということのなかで制作をつづけてきた。

表現とはひとつのイリュージョンによって成り立っている…・という言い方が、果たして吉本さんを知らない人々に共感は無理だとして理解してもらえるものか…そこでつまずいていた(大学院の教官を含む)

今回のノーベル賞受賞で気付いたことなのだが、冷静に考えてみると小説とは、まさしくイリュージョンによって成り立っている世界だ。こんな当たり前のことに今頃気付いた。そして、このことが、吉本理論がメジャーでなくても(超難解でメジャーにはならない)勇気をもって引用して行こうと腹が座った。
自分という存在も、その実相を等身大でつかむことは出来ない。それは、肉体という限界を持った感覚器官をいったん通し(ここで変容を受ける)更にその判断は時代的な制約を受けるといった具合に、重層的な変容を受けて自分という「像」を結ばなければならないからだ。

その意味で自分という像は「自己幻想」というイリュージョンによって成り立っているということになる。加えて、その自分の外にあると思われる世界も、ひとつのイリュージョン(共同幻想や共通感覚、そして規範)でしかない。

普段、僕らはこんなことを一々確認しながら他人とコミュニケーションをとったり、自分自身と会話したりしている訳ではない。でも、こうして改めて僕らの在り様を考えてみると「イリュージョン」という限界を持った心的領域を介して僕らは人とつながっている。このことは大きい。すべての悲喜劇もここから始まるわけだから。
六十才を過ぎたら、小難しい吉本さんの「心的現象論序説」など読むことはないだろうと思っていた。ところが、今また読み返すと超難解と言われていたこの著作に、若い頃届かなかった地点まで読み進んでいる実感がある。表現という人間臭い営為を考察すると、どうしても「病む」とか「異常」という心的領域を理解しなければならなくなる。というのも「病む」という在り様が、極めて人間的な表出だからだ。

そういえば80年代の始め最先端の研究として狂ったコンピューターをいかに開発するか・・・が話題になったことがある。確か「2001年宇宙の旅」は1968年の作品だったはずで、すでにコンピューターが狂うという事から逆に人間らしさとは何かを照射してみせた見事な作品だった。

吉本さんが盛んに「病むとはなにか」そして「異常とは何か」を突き詰めているのも、表現の根幹に関わる事象が「病む」ことや「異常」のなかに潜んでいるためだと思われる。
 
  今日カズオ・イシグロの『日の名残り』を読み終えた。

ノーベル賞をとった翌日には、ここは田舎とはいえどこの書店にも在庫はなく、図書館も同じような状況だった。早川書房の増刷は決まったものの相当先になることが分かったので(ハヤカワepi文庫) Kindle版にした。

紙媒体の方が読みやすいことは分かっていたが、結局電子書籍にしてよかったと思っている。それは、漢字に疎い僕には辞書を片手に読み進めなくとも、タブレット端末の文字を選択してタップるれば即座に読みや意味、おまけに凡例までも出てくる。そして、現在どこまで読み進んでいるのか%で出る。加えてあと何時間で読み終えるかまで表示される(これはいらないかな)。

感想はというと、気高さと思慮深さに加え、今では日本人全員が忘れてしまったのじゃ?と思える物静かな慎み深さに満ちた人と人の営みがそこにはあった。このところ世の中、やたらと不倫だとかで騒いでいて、僕の周りも同じような状況になっていることで、何とも猥雑で俗っぽい日常の空気が流れていた(でも斉藤由貴は未だにファンです)。それはそれで時代の空気なので仕方がないのだが、人間の尊厳の様なニュアンスが、野暮で疎まれる昨今、僕らが何か人間臭さを誤解しているのでは?と思わせる気付きへとこの小説は導く。
 
  読み終えて、イシグロ氏が小津安二郎に影響されているとされていることが理解できた。数年前、世界の映画監督や映画関係者の投票で世界で最も優れた映画監督とされた小津だが、イシグロの作品にも同じような「品格」が感じられた。こういった品格は、もはやアマゾンのジャングルの奥地か、さもなければチベットの高地にでも出掛けないと、そういった慎み深く気高い精神を備えた人に出会えることもないのでは…と感じる。

僕には、小津やイシグロの作品に流れる、自然に対する畏怖や人に対する深く思慮深い気遣い、そして生涯を真摯に生き抜こうという誠実さはない。遠い昔、どこかに忘れてきた微かな記憶があるだけ。

それと、英国は「大人」だということ。先の二度の大戦を潜り、ユダヤ人に対する差別など、欧州が抱える解決が不可能じゃないかと思わせる難しい問題に、悔しいけれど日本など足元にも及ばない成熟さで応じている。ちょっと敵わないなぁというのが感想だ。
 
  僕は、小説や映画、そしてドラマなど、どんな時でも常に作り手の立場に立ってみる癖がついている。どんな時でもだ。「神は細部に宿る」じゃないが、作者がほんの小さな「もの」や「一言」に、何か深いメタファーを残しているんじゃないか細心の注意をはらう。だから読むのが遅いのかも知れないかな

『日の名残り』では、主人公の執事が取り仕切る食卓の端役である銀器のコンディションが、何時どんな時でも完璧であるように準備することが、執事のもつ「品格」のメタファーになって物語は展開されている。作家という職業の構えは、すべてのシチュエーションに細心の注意を払い、どこにも矛盾のないように構成するような心理的力学の上に立って物を作る指向性を持つ。

故黒澤明監督が、列車の車窓から見える景色に、どうしても邪魔な家があることが気になり、その家を壊したという話は有名だが、ひとつの部屋の中の家具の位置や様々な舞台装置の配置がでたらめでは、物語が成立しない。ヨーロッパでは「図像学」という学問があって 、中世画などの様式美である一枚の絵にも、その構成には全て意味があるものだという事を言っている。そこでは、部屋ひとつとっても、中世には中世の家具の配置や間取りの決まりがあったということを詳細に考察している。
  ことほど左様に、小説でわざわざ文中に触れるアイテムやキャラクターが、漫然と登場するわけではないことは確かだ。厳選に厳選を重ねたうえで記される。それでも、巻末で訳者が触れているように文中で史実の前後関係に矛盾があり、それを作者に質したところ素直に誤りを認めたという。イシグロ氏の人となりが垣間見え微笑ましくもあった。

実は、僕も一か所ちょっと白けるような間違いを意地悪にも見つけてしまった。見つけた後、物語に集中できず難儀した;;;。それは、主人のフォードを借りて、かつて同じ館で執事と女中頭として働いたことのある同僚への静かな恋慕と、微かな職場への復帰を願って長旅に出るシーンでのこと。

旅先で車がエンジントラブルを起こし近くの家に助けを求める場面だが、運よくその家の使用人の運転手らしき男にサポートを求めると、ボンネットを開けた運転手は、難なくラジエターの故障を突き止め即座に手際よく漏斗で水を注ぎ主人公を救う場面…これはあり得ない。
  もし、うっかりラジエターキャップを開けようものなら、100℃に沸騰し体積が1700倍になった水蒸気が吹き出し顔中大火傷の大けがを負う。なので、ここは慎重にも慎重に事を運ぶというシチュエーションで、かなりの時間を置かなければならないはず。作者は熟練した運転手であることのメタファーとして手際の良さを表したのだろうが。

もちろん、小説の真価を損なうものではないことは言うまでもないが。。
   
   本題から外れてしまった。

現代社会の問題が、人間の持つ過剰性や逸脱などにそのテーマが移ってからどの位の時が経つのだろうか。僕らはイシグロが伝えようとしている、人間が本来持つ尊厳や気高さ、そして労りや正しさなど、人と人の営みの深さにつながる心の領域をどうして見失ってしまったのだろうか。

イシグロは言う「人が過ちを犯した後、それを虚偽で繕わなければならない状況がある。それはちょうど第二次大戦当時、フランスやイギリスでも、多くの人間がナチスに協力していたことに重なる。しかし、人は後にその捻じ曲げた事実と向き合わなければならない時が来る。その時の人間の心の葛藤を描きたい」。そういったことを小説のテーマにしている作家が、一体日本にどの程度存在するのか。。

今回賞を逃した村上春樹も、近いうちに受賞するだろう。ただ、イシグロと異なる点は、やはり村上の作品のテーマが、現代社会に翻弄される人間の過剰さや逸脱にあると思われる。これは恐らく資本主義が、その構造上押し出す社会的噴流へのリアクションだろうから今日的テーマであることは確かだ。

しかし、それだけでいいのだろうか。貧富や身分とは関係のない、人間が本来持っていた、あるいは持つべき資質としての気高さや尊厳、そして魂の純粋性や高貴さを、逸脱と過剰性とは別次元で語ったり獲得したりする営為を文学が取り上げないでいいはずがない。
   
  ノーベル文学賞を与えたスウェーデン・アカデミーは、イシグロについて「強い感情的な力を持つ小説を通し、世界と繋がっているという我々の幻想に潜む深淵を暴いた」作家と説明した。

この「幻想」とは、つまるところ個的には自己幻想であり社会的には共同幻想にほかならない。ひとは、この幻想なくしてその存在に耐えられないかも知れないし、またその錯覚なくしては、人と人が関係し合うことは不可能だ。
 

吉本隆明『心的現象論序説』より
  もうひとつある。それは、存在することの「異和」(これは吉本さんの造語です)である。カズオ・イシグロ氏も、この「違和感」 についても言及しているというので、今後彼の他の著作を読み進めることで、異和に関して彼がどういった感情なり考えを持っているか知りたいと思う。

読み始めは「残り時間3時間45分」とかの表示が出たが、とてもじゃなくその三倍程度掛かった。それこそ、思想・哲学書の方がストレスなく読める。やはり僕は小説が身近じゃないなぁと感じた次第です。ただ、小説じゃなければ触れることも近づくことも出来ない人間の深淵があるということを改めて知った次第です。
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