「100さいのオオサンショウウオ!!」 作:茨木朝日
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2009 --2017
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僕の研究フィールドの聞き込みも順調で、先週・先々週と社会福祉施設の理事長を始め、区長、そして、関連する新しいアートスペースとの出会いも重なり、思いもかけない幸運が続いている。中でも福祉施設「琴弾の丘」の作品を扱っているという「オンサルデ」との出会いは、たくさんの学びがあり収穫は大だ。

「オンサルデ」とは、但馬の方言で「いる」つまり「存在する」という意味。単に「いらっしゃる」ということではなく、そして単に存在するという意味でもなく、ハイデガーのいう「現存在=Da-sein」に重なるものと僕は理解している。つまり、「障害者も健常者も同じように実存するということを、是非理解してほしい」というオーナーの思いが込められていると察する。

「さんかく」:「琴弾の丘」の上野さんの作品
幸運なことに、「うちげぇのアートおおや」の一部門とばかり理解していた「琴弾の丘」の知的障害者アートは、実は「オンサルデ」のオーナーが運営するNPO法人 「がっせぇアート」も積極的に扱っているのだ。僕の認識不足で、「がっせぇアート」は、豊岡を拠点とする組織と誤解しており、僕の研究フィールドである養父市にその拠点があることを全く知らなかった。それは、後で触れるが、大屋町の分散ギャラリーさんと、障害者の作品に対する「構え」が違うところからきている。

制作風景
........ 「琴弾の丘」にて
「プライド価格」といういい方がある。それは、まだ、売れていない(それなりに、メジャーになっていない)作家志望の云わば作家予備軍が、展覧会等で自分の作品に、ある意味”盛って”法外な?価格を付けるという在り様のことを指す。
 
何故そうするかというと、マーケットの現実を踏まえた常識的な価格を付けたなら、作家として認知されていない自分の作品は、惨めな低価格を付けざるを得ないからだ。もともと、作った「もの」に、他人の評価基準での「価格」を付けられたら堪らん!という自己保存本能が作家にはある。

貨幣が介在するマーケット(市場)においては、基本的に「もの」には、一般的な意味での「価値(交換価値)」と「使用価値(商品の役立ち≒機能)」がある。職人ではなく、作家という在り様に関係するのは、単なる機能としての使用価値を備えているかどうか(器が漏れずに使えるとか)だけではなく、お金では換えがたい(≒いくらお金を出してもいい)価値をどの位備えているのか(包含しているのか)に己をかけているということが大きい。

一年がかりで仕上げるそうです
市場に対して持つ作家の幻想は、「超付加価値」ともいえる異次元の価値を己の作品に盛り込むということになる。このことは、現実的には不可能なので、どうしても通常のマーケットの在り様に逆立する指向をもつのが作家といえる。

マーケット(市場)の在り様を認めない中で、作家にとっての「値段」=「市場価値」は、作家そのものの価値とは同義ではない…という意味合いで「プライド価格」が生まれる。これはある意味で正当な態度でもあり、すべてお金に換算されてなるものか…という作家の気構えでもある。

同じことが、知的障害者アート作品に価格を付ける場合にも言える。それは、彼らが就業支援としての作業場で、毎日繰り返される単なる単純作業ではなく、内側から湧き上がるような表現欲求や、その衝動が、表現へとつながる充足感、つまり実存を満たす結果として生まれた作品に「価格」を付けることへの”異和”だ。
同時に逆の心理的な動きも出る。それは、作品に価格が提示されることで”健常者と同じ土俵に乗る”という、市場への参入で得られる非障害者としての認知だ。自分の作品が、健常者では当たり前になっている、市場に流通して、それがお金をもって売買の対象になるということ、つまり市場から締め出されていた彼らの表現が、世の中の一般的な在り様と同等のものを手に入れられるという大きな対価だ。

作品が市場に乗るということは、売買の対象となる「もの」は、全て抽象化され等価交換の対象となる…事でもあるので、当然そこでは健常者同様疎外される。でも、通常の障害者の作業は、疎外すらされず、それ以前の問題になっている。基本的に彼らの労働は、健常者が疎外されるという不幸以前の段階に置かれているということだ。

こういった、重層的な問題を抱えつつも、知的障害者アート作品は、積極的に市場に流すようにするべきだと思う。それは、人間として、彼らも僕らと同じような社会の公益と公傷を正当に受ける人間としての権利をもつと考えるからだ。