邦画『GO』と「n個の性」

『GO』は素晴らしい作品だった。

この邦画が、この作品を発表した昨年、全ての賞を独占したのは当然だし、またその事実は選出者の「眼」が確かだったことを裏付ける。日本は未だ棄てたもんじゃない。

『GO』には、アメリカで開花し今日のハリウッドに至るまでの「映画」の優れたDNAが盛り込まれ、そこに流れている。
 例えばジェームスディーンの『理由なき反抗』、そして『ロメオとジュリエット』=(『ウェスト・サイド・ストーリー』)等々。

『GO』は昨年、日本アカデミー賞8部門で最優秀賞受賞 といった栄誉を得たが、今年は明らかに昨年とは違った社会条件がある。そう、北朝鮮拉致事件の事実の表面化だ。
 このおぞましい事実の前で『GO』は更に深みを増して見えた。

 僕自身は、在日朝鮮人でもなければ、在日韓国人でもない。しかし、このコーナーの「自分を引き受ける(1/7)」でも触れたが、僕自身「己」に対しても「他」に対しても「異」を唱えるというか、どことなく居場所が無い・・・・・「一体自分は何者なんだ?」という懐疑は、今も持ち続けている。それ故、主人公には不思議と違和感なく同調出来てしまう。 

確かめたことはないが、僕が日本人であることは事実だろう、多分........でも、主人公曰く「自分=クエッション」なのは同じだ。

20年ほど前、僕が関わった現代美術仲間の中で、ドゥルーズとガタリという、今ではあまり聞かなくなったフランスの思想家がいた。彼らの哲学的テーマに「n個の性」というのがあり当時話題になっていた。

 当時この「n個の性」というテーマは、特にフェミニズムの台頭もあり、それなりにマスコミにも取り上げられた。

「n個の性」の中心的課題は?というと、こうだ・・・・・・・

人間が持つ関係性の中で最も身近で抜き差しならないのは「男女」の関係だ。そこには、本来主従関係や上下の関係は無いはずだ。しかし、周りを観れば分かる通り現実はそうはなっていない(DVの問題しかり)。男と女という2つの性が、この世に存在する全ての問題の根源にある・・・・・・この考え方は、偉大なフロイトの思想による。
 しかし、実は人間が抱える諸問題は、このたった2つの「性」だけで語れるものでもなく(その意味で、ドゥルーズとガタリの思想は「アンチ・オイデップス」となる)、よくよく周りを観てみると「男」「女」以外にも「貧」「富」・「障害者」「健常者」・「老」「若」・「新」「古」・「ブランド」「非ブランド」・「背高」「背低」・「髪毛」「禿」・「色白」「色黒」・「先輩」「後輩」・「秀才」「凡才」............等々、これらは必ずしも二元対立するものではなく、例えば「貧」「富」の間には無限の段階と階級がある。

          

そして、これらの要素は必ずしも「富」→→「貧」と一方向のベクトルをもってその支配関係を形作るものではない。「貧」のアイデンティティーを持って集まったグループでは、「富」の要素を持った者は、きちっとそこでは差別される。その意味でこの権力関係は、正と負を持つ膨大な絶対値をもつ化け物として、それぞれに属する人間を支配する。

人の持つ支配関係(権力関係)は、男と女というたった2つの性だけではなく、実は無限(n→∞)に存在する。それを「性」にたとえるならば、その権力要因は「n個」あることになる。

つまり問題にするべき対象は、「n個の性」になる。

と、言うわけです。

『GO』の中でもそれを象徴するシーンがあった。それは、先輩が役所に「指紋押捺」をしに行く場面だ。

役所の窓口に出た職員の顔には、おおきな痣があり、その職員が押捺をする先輩の手を書類を立てて周りの人に見えないよう隠してくれた、という下りは、顔に大きな痣というハンディーを持つ女が、常々きつい差別に曝されていることから、「在日」という逃げるに逃げれない「差別」に理解を示す事が出来た、というシーン。「n個の性」を象徴する出来事で、僕はこのシーンをもってこの作品の回答と、その質の高さを感じ取れた。

これは、人間が最後の最後に近いところで解決を出来ずに残る問題といえる。(「存在する」という事実の中に避けがたく起きてしまう事態)。

『GO』の中で主人公(=作者)は、「これは僕の恋愛に関する物語だ」と繰り返す。政治じゃなくて人間がどの様に存在するかの問題だということ・・・・・素晴らしく賢い釘の刺し方。

やっと、こういった重たいテーマをストレートに、そして美しく表現できる世の中になった。勿論、依然として課題は残ったままだが。

多分、未だ眠っている同じ様な作品が他にもあるに違いない。

何か、これからがとても楽しみだ。