僕はその昔、植木 等になりたかった..............。

僕の黄金時代は小学校だったが、そのころ次に生まれ変わったなら絶対に植木等か藤木孝になりたいと本気で思っていた。

藤木孝って誰?っと若い方なら思うだろうな。。。

40年ほど前、日本TV「シャボン玉ホリデー」に出演していた無茶苦茶ダンスの上手かったオジサンです。

40年程前、そう....昭和30年代でした。日本は、まさに高度成長期に突入していく時期でした。「最早、戦後ではない。」との経済白書も出て、高度経済成長の前夜でした。
 「豊かさ」が幸せの尺度の上位に位置し、サラリーマンは猪突猛進、猛烈社員になるべく全てを犠牲にする覚悟を決めた時期でもありました。

文化は、明らかに一億総白痴化を生み出すテレビが、その生産の主軸となった。けれども時代は、まだまだ文化の香りが漂い、植木等の所属したクレージー・キャッツも演奏曲目は主にジャズで、インテリジェンスを感じる小粋でしゃれたものだった。

現実は、本当に厳しかったと思う。

僕の親父は、しがないサラリーマンでした。毎朝6時に家を出て2時間以上を掛けて出社し、身を粉にして働いた後の退社も同じく2時間以上掛けて帰宅する毎日でした(通勤時間約5時間!)。
「サラリーマンは〜♪気楽な稼業ときたもんだっ!」..........

これは、サラリーマンの無意識の願望を代弁したまで。。。

手が届きそうな豊かさという幸せを掴むため、遮二無二働いて消耗していく人の悲哀を必死でカルカチュアしていたんだと思う。

ただただ「しんどさ」を笑いで浄化していた時代。

その「笑い」を提供してくれる芸人は神に等しい。だから僕は神になりたかった。

.......どうしたらクラスの仲間が笑ってくれるだろう。

どうしたら受けるのか..........

毎日そんなことばかり考えていた。そんな僕にとって植木等は神だった。

時代の進展は目を見張るほどで、そんな文化の薫り高いクレージー・キャッツの笑いも、数年後にはドリフターズに追い落とされてしまいました(とても悲しかったです,,,,,)。
この時、すでに文化の軸は、サブカルチャーに移行する準備をしていたのかも知れません。なので僕は、今でもドリフは低俗でただのオバカさんと決めつけています(”いかりや長介は好きですが”)。

いかりや長介という名も仲本工事という名も、「長一」から「長介」そして、「こうじ」から「工事」へと改名させたのも、実はクレージー・キャッツのリーダーハナ肇でした。歴史は残酷で、とても皮肉です。




まだ牧歌的だった荒川沿いに住んでいた僕の周りの風景も徐々に変わり、堤にはタンポポやツクシの横に不法投棄された産業廃棄物が溢れ出しました。

それでも子供達は逞しく、それらのゴミの山から点滴用の注射針セットやお風呂屋さんのタイルといった危ない宝物を興奮してあさってはポケットに詰め込んでいました。

新設された工場から鉛色の運河に流れ出る排水は、バリュームの様に重く真っ白で、「ごくり」と一口飲んでみたくなる衝動に駆られたのは、それが初めてみる光景だったからでしょうか.......



そして40年経った今、僕らは経済的豊かさに変わるべき幸せの尺度を、真剣に創り出さなければならないようです。

毎日が、黄金のように輝いていた時代を創ってくれた植木等さんに深く感謝し冥福を祈ります。
合掌