8月15日                EPOを聴いて・・・

 昨晩、知人のメールでEPOのコンサートが、隣町の葉山であるという連絡をもらった。

 この知人は、以前お世話になったギャラリーのスタッフだった方で、実はEPOの中学時代からの友人だと聞いたことがある。
 ご存じの方もいるだろうが、EPOは確か東京女子体育大学出身だったと記憶する。そして、この知人も足が速く短距離の選手で、体育祭の時二人して鳴らしたとか・・・・・。

 むっちゃ忙しかったが、以前からEPOのコンサートの案内を頂いているので、ここは期待に添わなければと仕事をそうそうに片づけ、開演時間のpm 6:30 ぎりぎりに自転車で一色海岸までぶっ飛ばした。

 あいにく予約席は完売で立ち見席しかなかったが、何とか間に合った。

EPOにとって良かったのかどうか分からないが、彼女がメジャーになりメディアに流れるようになった時期は、ちょうど「俺たちひょうきん族」がブレークしていた頃で、彼女の曲もその番組のエンディングテーマに使われていた。
 タケシを始め、今ではお笑い界の大御所といわれるメンバーは、一線を引いていたタモリととんねるずを除き、ほぼ「俺たちひょうきん族」から排出されたといってもいい。

 TVは勿論、他のマスコミもただただ「消費」するばかりで、その破壊的なエネルギーはまるで狂気だった。それはもう、まるで排泄行為と言ってもいくらいに。

 そんな食うか食われるかかの様な状況の中で、その時代の波に上手く乗るよう皆必死に見えたが、一アーティストとしてそのような状況の門出は「幸」だったのか「不幸」だったのか・・・・・・?

 僕自身、表現をすることを商売としているので、同業者ならば誰しも一度は考えるであろう「自分が作っているのか、あるいは状況に作らされているのか」といったテーマにぶつかったことがある。
 20年ほど前、僕はこのテーマに悶々とした日々を過ごしていたが、幸運にも二人の偉大な思想家から救いのインスピレーションを受けた。

 一人は、詩人としての吉本隆明、そしてもう一人はその吉本氏と対談も持ったことがあるフランスの思想家ミッシェル・フーコーである。

 もの造りに従事していると、その現場で制作している瞬間は「これは最高傑作だ!」といった幻想の中で生きている。これは端から見ていると狂気でしかないだろう。自分自身、何でこんなにしてまでものを作っているんだろう?と思うこともしばしばだ。

 そんな自分を詠んだような吉本氏の『固有時との対話』という詩集の中に「廢人の歌」という一篇がある。

ぼくが真実を口にすると
ほとんど全世界を凍らせるだろうという妄想によって
ぼくは廢人であるそうだ
                    (「廢人の歌」1952 未発表のまま「転位のための十篇」1953.9.1自家版に収録された)

ものを作る瞬間瞬間が「真実を口にする」・・・・「本当のものを作る」といった幻想に支えられている。

そう、僕もその意味で「廢人」なのだ。別に自分を卑下しているわけではないが、そのような自覚はそれなりに負担だ。

 そんな危うい自分を救ってくれたのが、フーコーの思想だった。

 人類が、その観念を派生させ科学技術によって人工衛星ランドサットを生み出し、無限遠点の視線を獲得した今、「人間」を中心に据えたヒューマニズムは、おおよそ傲慢で陳腐な観念でしかない、とフーコーは言う。

 人がアクションを起こすのは(「表現」するのはと、置き換えてもいい)それは、たまたまそのような状況と環境にあったからで、その人間の「意志」とは直接的な関係はない。人間の行動を規定するのは、「意志」ではなく世界「構造」だ、とするフーコーの思想は、「廢人」を自認しなければならない自分を傲慢な者として救ってくれる。

 自分の意志でものを表現しているという幻想は、廃人であると同時に、人は関係性という関数の中での一変数でしかなく、その意味で表現を支えるのは「構造」なのだという思想は、とても自分を楽にさせてくれる。

EPOのコンサートについて話し始めたのが、こんなに遠い所まできてしまった・・・・・・

小休止です。

つづく 

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