拙文(「工芸の終焉」)に対する貴兄の応答に対してのこちらからの返事 10/13    フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
笹 山
 まず押えておくべきは、〇〇教室という文化サービス施設はあくまでも経済的基盤として、近代的地場産業システムに代わる役割を担うということです。
したがって、それが新たな産業構造を形成していくということが重要であって、そこで成就されてくる事柄の質の高低は二義的な問題でしかありません。

つまり、良質のものを生産しようと粗悪なものを生産しようと、経済的に成立していくのであれば、内容的なことは問わないということですね(法律とか世間の通念とかに抵触しない限りですが)。
 
このことを確認した上で、しかし、できればいいものを作りたいものだと考えるのも、志の問題としてあると思います。それは、同じ生産活動をするにしても、ただ単に利潤の追求だけではなく、クォリティのあるものを作りたいと、一部の企業家が念願するのと同じことでしょう。

その志と現実とをどう折り合わせていくかということは、サービス施設の経営に主力を注ぐ人にとっては大きな問題となります(もちろんそういうことにはまったく関心を示さず、ただ、儲かりさえすればよいと考える人もいるでしょう。)
笹山さま

笹山氏はこんなに熱いパーソナリティーだったっけ・・・と驚くほど熱く語って頂き、やはり団塊の世代は元気だ!と感慨無量です。(10/10)

さて、僕自身、カルチャーセンターなどのアマチュア産業そのものは、どんどん発展していくべきだし、そうなるだろうと思います。

ただ、工芸の表現世界そのものがアマチュア産業に全て吸収されて地場産業システムに代わる役割を担うとは言い切れないように思います。

例えば、僕が25年以上お世話になっている木地師の里・石川県山中なども、御多分に洩(モ)れず退潮著しい訳ですが、今後、現状の第二次産業から離脱し、町全体が所謂第三次産業としてのアマチュア産業化していくことを選択するとも思えないのです。

これは陶芸に関しても同じで、陶芸に関わる地場産地が「都市型」のカルチャーセンター化するのも難しいと思われます。

本来なら、中国や東南アジアで現地生産する方向を模索するのが自然なのですが、「地場産業」とは、地域全体が製造業化しているので、それは地域そのものの「死」を意味してしまいます。

今、地場産業としての産地では、生き残りの手立てとして、自分たちが買い手になることで窮地を凌いでいます。
そのいい例が、地方の商工会議所が、様々なイベントを打ち、現地に「お金」が落ちる企画を提案していることです。これは、僕らが想像するより多いように思います。つまり、その地域の人達が、その地域のイベントに参加し、その地域が生み出している漆器なり陶器なりを買うということです。勿論、観光客が訪れるところは、その方々にも買って頂くことになります。しかし、原則は、現地生産→現地消費型です。

したがって、地方の場合は、「都市型」のアマチュア産業化へ地場産業を移行させるのは、とても難しいと考えます。
このレベルでの問題は、文化サービス事業が消費意識の元で需要されることだと思います。つまり文化サービス施設が消費施設として捉えられ、生産施設としては捉えられないということです。

平ったく言えば、その施設を利用している人にとって、その場所でサロン的に面白おかしい時間が過ごせればいいのであり、そのためにお金を出してもいいと思ってるわけであって、何かを創り出そうというような、そういうしんどいことは面倒くさいとか、そういうふうに考えることですね。
僕が「工芸の現在」を立ち上げた訳はこのことにあります。つまり、地場産業としての地方はどう変貌して行くのが理想なのか....その辺もテーマになっています。

ただ、地方都市であれなんであれ、都市近郊は、アマチュア産業の市場そのものですから、これからも所謂「お教室」は充実度を増して発展すると思います。

「千葉の陶芸がおもしろい・・・」という取材から見える僕が受けた印象は、以上の様なことでしょうか。

笹山氏の報告にあるように、僕も都市近郊である千葉のアマチュア陶芸のなかには、今後面白い動きが出てくるだろうと思います。
貴兄が鎌倉彫りの教室に対して覚えた嫌悪感というのは、このあたりから発生してくるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

創作との絡みで言えば、そういった文化サービス産業を支える消費意識が生産(創作)意識を腐蝕していくということがあるのではないかという気がします。
→→まったくその通りです。この辺の懸念もとても近いものを感じます。


「消費」に関しては、若干違った思いがあります。

笹山氏があげているようにボードリヤールは、人間にとって「消費」というものの考察はとても重要だ!と考え検証した最初の思想家だと思います。

彼は、その著書『象徴交換と死』その他で「消費」に関して多くの考察をしています。そして、概してフランスの思想家の多くは、ドゥルーズにしても、ガタリにしても「消費」は悪で「生産」は善といったスタンスを持っています。

僕自身、これは違うだろうと思います。恐らく日本より数十年早く高度資本主義社会に到達したフランスでは、東欧やソ連の所謂社会主義の死を未だ見ていなかった事もあり、世界の理想像を非資本主義に見ていた節があります。

そもそも「消費」と「生産」を倫理的に見てはならない....ということを僕は日本の思想家から学びました。
僕自身は、それはとても恐いことだと思ってるのです。そういった消費意識は、サロン的装いの裏で、先人たちが蓄積してきた「文化」を食い尽く(消費)していき、その代わりに何も創り出さないのですね。

1970年代にフランスの哲学者ボードリヤールは「生産概念の終焉」ということを言っていますが、今という時代はまさに、生産が「消費のための消費」に取り込まれていって、「ものを創り出す」という感覚を失いつつあるように思います。
例えば、今アフリカでは絶望的な貧困が全土を覆っています。もし、その様な彼らがヴィトンやグッチなどのブランドを今の日本人の様に買いあさる日が来たとしたら、これはもう万々歳です。

でも、ありっこない夢のまた夢です。僕らも、そしてフランスの知識人も、自分たちは飢餓から遥か遠いところにいて、未だ資本主義の入り口にも達していないアフリカの現実を前にして、資本主義を悪だという資格はないように思います。
同じ意味合いで「消費するための消費」を実践している日本の現実は、最終的に問わなければならない資本主義の限界とその先の理想的な社会と対比して語るべき次元ではない様に考えています。

日本において、’80年代に入り「消費」の持つ意味が大きく変わりました。
「消費とは、時間的に遅れた生産」だ!といったのは、吉本隆明ですが、現在の日本は益々その意味がはっきり見えている状況のように感じます。

勿論、僕自身原宿や六本木を歩いている時に、海外のブランド品を身に着けているネエチャンを見ると、つい「けっ!」と唾棄したくなりますが、でもこれは大きなお世話。欧米と違って特権階級が身につけるのではなくパンピーが身に着けるのは歓迎すべきことなのです。

とくに、バブル崩壊後の日本は、いいものをじっくり選んで買う=(消費する)というとても生産的な消費指向に徐々にですが移っているように思います。超資本主義に入った日本では、消費と生産が等価になった、あるいは、消費から見ても生産から見ても同じ様に社会が見えていると思います。
そういう時代のさ中にあって、「創作とは何か」という問題が、改めて問われてくることになるのではないでしょうか。
 近代的産業構造の終焉から文化サービス産業構造への移行において、その裏面には以上のような問題が控えているように思われます。はなはだ簡単ですが、とり急ぎ応答しておきます。
 

ボードリヤールは「芸術は終わった。そして、最早芸術はデュシャンのレディーメイドや『泉』の様に、現実と瞬時の短絡によってそれらの暴力的な脱昇華作用を対置することしかない..」という様な事を最先端の思想として言っています。
でも、僕らはその様な人間の有様をずっと昔から知っていますし、そう生きてきました。取り立てて特別なことでもありません。

その意味で「消費」が創造性を侵食し、人間から創造性を奪うとは考えられません。「消費」していく中で学んでいくことも多くあるように思います。
「創作とは何か」という問題に関しては、とても重要な問題提起として、場所を変えてあらためて話し合えたらいいな~と考えております。

では、では。(10/13 pm 9:29)