近代的窯業の終焉
中国の古い格言に「陶を通して政(まつりごと)」を見る」というのがあります。確か宋の時代(日本の平安時代後半から鎌倉時代半ばあたり)の文献に見られる言葉だったと記憶しています(今手元に確認の資料がないので、このまま続けます。以後の論旨には影響しません)。
宋(北宋・南宋)の時代は、中国史上、文化的に最も隆盛を極めた時代のひとつと言われ、やきものの世界でも白磁、青磁、天目など世界の陶磁器史上でも最高峰と評価されるやきものが制作されました。

そのような時代に冒頭のような格言が出てきたわけですが、なぜそういうことが言えるのかというと、当時はやきものの生産が国家の事業として行われ、その出来・不出来が国家の威信にかかわっていたからですね。

そしてやきものづくり、つまり窯業は今でいう先端技術で、その技術と美の可能性が極限まで追求され、そのために莫大なお金が注ぎ込まれていました。
南宋の白磁・青磁などはそういった国家的事業の結晶なのです。

だから、国家の経済的・文化的繁栄が完成度の高いやきものを作り出したのであり、逆に、やきものの完成度が高いということはそれを実現した国家の経済的・文化的繁栄を表しているということになるわけです。

冒頭の格言はそういうことを言い表しています。

これは中国を中心とした東アジア地域(朝鮮半島、日本)や中央・東南アジアの国家間の関係や文化状況を判断していく上でとても便利な目安を提供してくれます。

そのこと自体とても興味深いテーマですが、ひとまず置いときます。ここではもう少し拡大解釈して、ある地域の社会状況をやきものを通して見るということが、かなり普遍的に(つまり世界中のどこでも適用できるほどに)成り立つということを言っておきます。
たとえば、日本という社会とやきものとの関係は、明治初期においては国家の経済を支える役割を果たすほどに密接な関係を持っていました。

「日本人のやきもの好き」はどこから始まるのかということがたまさか話題になることがありますが、それは明治初期以降のやきもの産業(窯業)の盛衰の歴史とかかわっていると見ることができます。

更にまた、近代的窯業が国家の基幹産業レベルから落ちこぼれ、細々とした文化サービス産業へと転身をはかっていく移行の中で生じてきた事態であるかと考えられます。

そして近代的窯業が終焉していくその果てに、未来先取り的に生じつつある先端的現象こそが「千葉の陶芸」ということになるわけですが、次回はその意味を検討していこうと思います。

(窯業は本質的には社会の――特に統治・管理のシステムが進んでいる社会の――基幹産業たる地位を失したわけではありません。現代では伝統的もしくは近代的窯業がその歴史的役割を終えただけで、それに代わってファインセラミックスが、現代産業の基幹をなす新しい窯業として登場してきました。)