「工芸的視点」について(2)
外的世界に働きかけて新たな存在(もの)を創り出していくためには、まずその対象とする「外的世界」のことをよく知らなければいけないし、次に、どうすればその「外的世界」がこちらからの働きかけに応えてくるかを知らなければいけない。

つまりここで、対象へのかかわり方のとしての「技法」ということが介在してきて、この「技法」を習得するということが要請せられてくる。だから「新たな存在(もの)を創り出していく」ということには、働きかけていく「外的世界」としての対象と、その対象への働きかけ方としての「技法」ということが必須の要件となるわけだ。

相手のことを研究したり、技法を習得したりするのには少なからぬ時間を要し、それを修業期間と言ったりするのだが、何をやるにしても修業期間を経るということを省くことはできない。

ところがコンセプチュアリズムはそれを無視していく傾向があって、「素材は何でもいい」とか「上手い下手は問題ではない」とか言って、ひとつ間違えばものづくりということを安易な方向へと導いていきがちである。
 これが更に商業主義と結びつくと、ノウハウとか教材とかをマニュアル化あるいはキット化して、「だれでも簡単にすぐできる」とか「サルでもできる」とか言って、とにかく売りまくっていこうとする。

「だれにもできるというわけではない」とか、面倒な手数のいることとか、時間をかけてじわじわとやっていくこととか、深く掘り下げていくこととか、血や汗が噴き出してくるようなこととか、どこからも助けがこなくて独りでやるしかないこととか、そういったことは「ウザッタイ」とかいって、敬遠されていく。自分の思うままになる世界だけが自分にとっての現実で、思うままにならない世界に対してはかかわっていこうとする姿勢を放棄していく。

これはコンセプチュアリズムの行き着く果てであって、そこには「オタク」とか「ひきこもり」とか「ニート」といった精神状況が発生してくる。それは「外的世界」が見出せない状況だが、「外的世界」を見出すということは、それを理解していくプロセスとか、かかわり方としての「技法」を身につけるということを必然的に伴うということなのだが、そういった「技法」を習得することを面倒くさがるものだから、いつまでたっても「外的世界」を見出せない状態を続けていくわけだ。そういう堂々巡りを今の若い人たちはやっている。

ついでに言えば、コンセプトとは情報であり、情報は情報量すなわち数値に置き換えられるものとして扱われるから、コンセプトもまたコンピュータ社会においては数値に置き換えられる事柄に他ならない。数値に置き換えられるということは、貨幣の量に換算できるということである。かくして、コンピュータ社会は貨幣の量に換算される事柄としての情報だけが意味を持つ世界に向かっていくわけである。

外的世界としての「対象」を設定し、それに働きかけて加工していくプロセスとしての「技法」を確定する。そしてものづくりを、技法を媒介にした作り手と対象との相関作用としてとらえる、というのが「工芸的視点」の基本的構造である。人間の文化的営為の創造的な意味は、この「工芸的視点」から捉えていくことができる。工芸的視点を見失うと――つまりコンセプチュアリズムに走ると――人間の精神はおかしくなっていく。

工芸的視点を見失うということは「対象」や「技法」を見失っていくということだから、たとえば「建築」というものづくりにおいて、対象としての「建物」「鉄、コンクリート」を見失い、「工法」という技法を見失う。「人がどう住むか」というコンセプトは貨幣の量として表されることになるから、耐震強度を満たしているかどうかという情報も、貨幣の量的関係の中に解消していくのである。