「かたちの会」の発足について

21日、「かたちの会」という名の会を発足しました。目的は作り手と使い手の交流をはかることを通して、「長く使って愉しむ」文化を復活させていこうというものです。

しかしそんなことがうまく行くのかどうかというあたりで、私の知り合い関係の人たちの多くは今のところ遠巻きの静観を決め込んでいるようです。ものごとの立ち上がりというのはいつもそういうものなのですね。

たしかに、作り手と使い手の交流というのはいささか漠然としているかもしれません。もうちょっと実質に迫ったところで言うと、実は、「文化の興隆にはパトロンによるサポートを欠かすことができない。現代においては誰がパトロネージを担うのか」という問題に対しての、ひとつの回答を見出して行く試みであると言い換えることができるかと思います。そしてその手法として、市民ファンドの考え方を適用していこうかというのが、実は私のひそやかな目論見なのであります。では、どのようにして? それはまだ公表することはできません。私自身の中でも、もうちょっと戦略を練りこんでいかなければいけないと思っているからです。ここでは市民ファンドに絡めて、思い切って大局的な話をしておくことにしましょう。

そもそも「工芸とは何か」という問いに対しては、「工芸」へのアプローチの仕方によっていろいろな答えが考えられるのであって、決して一義的ではありません。たとえばここでは、過去を振り返って、工芸文化が栄えた地域とか時代というのはどういう地域であり時代であったかという観点から「工芸とは何か」を考えてみますと、富が一点に集中していくような社会システムを有した地域や時代において繁栄してきたものづくりの文化である、ということができます。一点とはすなわち、国家であったり特定の貴族であったり領主であったり大富豪であったりするわけですが、要するにそういった圧倒的な富の所有者がパトロンとして存在することによって、精緻且つ華麗な工芸の文化が栄えてきたということができます。

工芸のそのような成り立ち方に対して、歴史上初めて根底的な批判を展開したのが日本の民芸思想であると私は思っていますが、そのような観点から民芸思想が検討されることはこれまでにはなされていません。それはともかく、現代においては、富は局所に偏在する(富の格差を生み出す)ことはあっても、一点に集中するということはあり得なくなり、

したがって、古典的なパトロネージの成立が不可能となって、工芸文化は不可避的に衰退していくことになるわけです。

平たく言えば、パトロネージの不在ということに現代の工芸は直面しているわけですが、それは富を独占的に支配する存在が不在であるということでもあります。そのような状況下では富は偏在的に分散しているということになるのかもしれません。そして偏在的に分散している富の一個一個の担い手以外に、現代という時代の、ものづくり文化の新たなパトロネージの引き受けては存在しないということになります。このことはおそらく、文化の創造をサポートするパトロネージの在り方についての、歴史上の大転換を意味しているのだと思います。

その歴史的な大転換を遂行していくのが「市民ファンド」の考え方ということになるのですが、「かたちの会」の発足は、まさしくそのような歴史的な必然の中から生み出されてきていると、私は確信しています。