酒の味の話から

酒を呑む時は限度を定めず、酩酊して常軌を逸して、周囲の顰蹙を買うようなことをしていきがったりするのが僕の若い時分の酒の呑み方でした。年を重ねてくると、酒の味にもそれぞれの個性があり、その個性を引き出すための丹精なものづくりがあり、そのものづくりに賭けた人間の生き様があるということがだんだん分かってきて、そういった奥行きのある情報をわが身に沁み込ませるようにして呑む酒の呑み方になってきます。そんな心境で若い時分の呑み方を振り返ると、いかにも愚かしく浅薄にも思えてきますが、しかしだからといって、そういう呑み方を一概に否定しようというつもりもありません。

若い時分というのは活動が活発でエネルギーが満ち溢れる時期だから、どうしたって身中から溢れてくるものをとりあえず処理していかないといけないわけで、与えられるものは右から左へと蕩尽していくのも、ひとつの通過しなければならない道程であるようにも思われます。それからまたもうひとつ、人間の行為には自己目的的なタイプのもの――酒を呑むために酒を呑むとか、そこに山があるから山に登るとかいったこと――があって、その渦中に身を浸すことの、身を焼くような陶酔的な感覚というのは、僕にも理解できないではありません。というよりは、そういう時期を結構長く――いい大人になってもいつまでも抜け出せずに――引きずってきたように思います。そして、そのような蕩尽的な生き方こそ創造的であり、アーチスティックなのだというふうに思い込んでいたりしたものです。

自己目的的な行為の典型は賭け事だと思います。賭け事の目的は勝負に勝ったり、それによって実益を得たりすることのように思っている人もいるかもしれませんが、そんな段階を超えて、「賭ける」という行為自体を目的化するということ、それに伴う自己破壊感覚への傾斜のなかに、狂おしいまでの陶酔性があって、その陶酔性のなかに理性を超えてのめりこんでいくのです。(このような人間心理の深遠をドストエフスキーは巧みに描いてますが)。僕自身はそういう世界に入り込むことはありませんでした。多少真似事のようなことをして、体力も気力も使い果たしながら何も生み出さないという、一時の陶酔感とその後の虚脱感の振幅の彼方に垣間見た深淵に怖気づいて、小市民的に撤退していったにすぎませんでした。

体力も気力も使い果たし、一時の陶酔に酔いしれはするものの、目覚めた時には何も生まれていない。平易にいえばそれが賭け事の本質です。「投機」という行為にもそういう本質が含まれていると思います。つまりそれは「消費から消費へ」という経済構造を作り出します。そういう構造の中で、生産の現場にたずさわる労働力は奴隷化していきます。それが格差社会ということの現われです。1970年代以降の世界はそういった投機的経済社会への階梯を急速に降下してきているように見えます。現在はインドと中国がその先端に立ちつつあります。まさに4大文明の発祥とともに始まった「現代史」の終焉が近づきつつあると僕には感じられます。

生産と消費の関係というのは、両者が互いに表裏をなす――生産は消費を生み出し、消費は生産を生み出す――というのが本来の在り方です。言い換えると、投資は何かを生み出すための投資でなければいけないということです。そしてそのような表裏の関係を取り戻していくということが「ポスト現代史」、つまり地球温暖化騒動以降の課題になると思います。