「長く使って愉しむ」ということ |
「長く使って愉しむものたち’07」というタイトルの展覧会を企画して、11月末から12月の初めの1週間、東京の郊外の展示スペースで開催することになりました。 (詳細は http://homepage2.nifty.com/katachi/forum.htm) 「長く使う」という言い方は、多くの人にとって決して違和感を覚えさせることはないように思います。「もったいない」とか「ものを大事にする」とか「長く使う」ということは、庶民のつつましやかな暮らしぶりを象徴する言葉として、日本人に親しまれてきています。この種のもの言いを聞くと、ああ、そうだなと多くの人が思ってきたはずです。 ではそういった生活規範が現実にも実践されているかというと、必ずしもそうではないのではないでしょうか。「もったいない」とか「ものを大事にする」とか「長く使う」といった言葉は、今日ではむしろ反省的というか教訓的な言葉として使われることが多くて、それらの言葉で言い表されるような暮らし方を理想とはしても、実際にはなかなか難しいと感じているのが現状ではないでしょうか。 「長く使う」ということも、それを実践しているとむしろ批難がましい眼で見られたり、ビンボーくさいと揶揄されたりするのがオチだったりすることの方が多いようです。なぜかといえば、この市場社会では貨幣が常に流通していることによって繁栄が維持されるという強迫観念があり、貨幣が常に流通しているためには、モノは常に新しいモノに買い換えられていかなければならないと思い込んでるからです。その流れの中に人間の暮らしというものが挿入されているというわけです。 「長く使える」ということを、企業のコマーシャルでも言ってるではないかという気がするかもしれませんが、よく聞いていると、「長く使える」という言い方は実はしていません。「長いお付き合い」という言い方はありますが「長く使える」とは絶対に言ってません。「長いお付き合いの間にたくさん買ってね」とは言ってますが、これひとつ買えば一生買い換えることなくすみます、とは決して言ってません。外見的にそう聞こえる場合があるとしても、モノを取り囲む状況が刻々と変化していって、結局買い換えるしかなくなっていくのです。 そういう世の中で、「長く使って愉しむ」ということを求めるのは、むしろ犯罪的な行為と見なされてしまうのです。実際、ひとつのものを「長く使って愉し」んだりなどしていると、経済活動が低迷していくのは確かです。 にもかかわらず、これからはこのことをどうしても言っていかなくてはいけないと思うのです。なぜかというと、現状の経済社会における貨幣とモノの関係は全般にデフレ傾向にある、つまりモノの価値が低下していく傾向にあるからです。モノの価値が低下していくということは、モノの価格が安くなっていくということだから庶民にとってはいいことではないかと思う人もいるかもしれませんが、そう単純なことではなくて、それはむしろ精神がやせ細っていくということなのです。 どういうことかというと、たとえば「これは私にとってかけがいのない大切なモノ」というような、人とモノの濃厚な関係、まさしく「お金には換えられない関係」という事態が喪われていくということになっていくからです。それは阻止されなければいけません。でなければ、人間はみなロボットになってしまいますよ。それを阻止していくために、今回の展覧会を企画したというわけです。 つまりあらゆる商品は潜在的な詐欺発生装置であるということができます。薬屋さんの風邪薬を、これは効かないといって告発することも理論的には可能であるということです。北海道のミートホープの牛肉は、告発があるまでは「牛肉」で通ってきたということが世の中の実相というものではないでしょうか。詐欺事件というものは、加害者と被害者の共犯であることが多いのです(そのことに気がつかない被害者が多いようですが)。 |