「公共性」の問題(続)
前回の話題(「食を立て直す」)は、食の在り方から「公共」とところへ話をもっていこうという目論見が実はあったのだが、この2週間の間に僕の頭の中で劇的な変化があって、今は別な言葉にとって代わられつつある。それについては次回以降に書くことにして、「公共」ということに関して一応の決着をつけておくことにしたい。

僕の個人的な「食の立て直し」から「公共」の話へ展開していく筋道というのは、要するに金子勝さんが言うところの財政学的ビジョンを僕なりに解釈して、それを「工芸のこれから」につなげていこうとしたということである。つまりここで言う「公共」というのは、セイフティネットとか社会的保障とか、あるいは市民が安心して暮らせるための「社会的富の形成」といったことにかかわることであり、金子さんの場合はそういう目標を実現する「信頼と信用」を基盤とした経済社会を「新しい公共空間」として描き出そうとしているわけである。

そしてそういうビジョンに即して「工芸のこれから」を考えるということは、「社会的富の形成」のプログラムの中に工芸創作を位置づけていくこととして考えてみようということである。

もっとも、この考え方にはある種の理想論的な匂いが伴っていて、理想論から現実論へとどう転換していけるかということが未解決の問題としてあって、そのあたりをどうもっていこうかなというようなことを考え始めていたのだった。

もうひとつ、食の在り方から入っていくということは、東アジア圏域の中での食糧生産の分担という課題における「食材の安全性」とか「品質確保」の構築という問題を喚起していくということである。つまり食材の安全性や品質が保障されるような東アジア経済圏を形成していくというビジョンにつながっており、それがいわば東アジア諸国間の「公共性」ということを提起してくるのである。

言い換えれば、「新しい公共性」を構築していくということは、単に国内問題としてあるだけでなく、東アジア経済圏の公共性を構想していくということでもある。象徴的に言えば、「電車の中での個人の振る舞い」も、東アジア経済圏の「公共性」という問題とリンクしているという観点で捉える必要がある。それが「新しい公共性」ということである。

このことは、当然東アジア文化圏の問題にもかかわってくる。つまり、東アジアの公共性を打ち立てていくということは、これまでの文化的な在り方、あるいは歴史的ないきさつといったことをきちんと清算していくことが要請されてくるのである。ここに「工芸」の問題も深くかかわってくることは、柳宗悦の民藝を持ち出すまでもないだろう。

その清算をあいまいなままにしておくということ、あるいは昨今とみに露骨になってきた「それはなかったことにしよう」現象は、東アジア圏域の公共性構築の基盤を溶解させていくような事態である。公共性を確立するということは「私」的な領域を保障するということと表裏をなすと僕は考えるが、この意味で言うならば、公共性構築の基盤を溶解させるということは、「私」的な領域に「公」的権力が介入してくるということである。

そしてそのようにして「私」が「公」によって侵蝕されていくとともに、「公」的な事柄が「私」化していくということである。「電車の中でまるで自宅にいるようにくつろいでいる人」が増えてきているように感じられることと、東アジア圏域の公共性が構築できないということとは、地続きの現象であると言える。