「美しいもの」について考える


ひとくちに「工芸」といってもその領域は広大であって、通常連想するところでは、陶芸、染織、漆芸、金工、木工竹芸、ガラス、人形などとあって、それぞれの分野で愛好者は、日本だけで言っても10万人はくだらないと予測される(漆芸だけはちょっと疑問だけれど)。

したがって、それら全部を合わせた数は数十万人にのぼることになる。

ところがこれらのジャンルをひっくるめて「工芸」と呼ぶと、「工芸」の愛好者はガクンと減って、僕などの実感では、全国で数百人を数えるぐらいしかいないのではないか。それぐらい、このジャンルにかかわる仕事から感じ取れる手ごたえはあるかなきかほどに小さいのである。

ここからわかることは、陶芸、染織、漆芸、金工、木工竹芸、ガラス、人形など各々のジャンルに個別的な興味はあるけれども、「工芸」ということにはほとんど関心が持てないということである。そうだとすると、改めて「工芸」とはなんだろうかと考え込んでしまうのである。


ある人が、「工芸」とは思想のひとつの表れであると言ったことがあるが、思想として考えれば、そういうことには関心が向けられない理由がわからないでもない。人々は、自分で実際に何かを作るとか、使って楽しむとかということに興味があるのであって、思想としての工芸を面白がるわけではないのである。

僕自身とても、工芸を思想としてなどと考えたくはない。ものを作るということ、あるいは美しいものに触れながら暮らしを営むということに関心があるのであって、そういうことを具体的に語るということを本当はやりたいのである。そういうことをやっていけば、世の中ともそこそこ折り合いをつけた付き合いがしていけるのではないかと思うのだが、実際にはなかなかそういうわけにはいかない。

「美しいものに触れながら」という場合のその「美しいもの」というのはどういうものかというようなことを、まず考えてしまうのである。

まず楽しむ、というのではなくて、まず考える、のである。考えるということはどこまでもどこまでも続いていくようなところがあって、キリがない。仮にひとつの答えを得たとしても、それに付随して別な疑問がいくつも出てくる。それでまた考えていくのだが、そうやっていくと果てしがなくなっていく。


美しいものの手本というのは、僕の場合には過去のものにある。しかしそういうものを現代に再現するということはあまり考えない。また、過去のものは美しくて現代のものはつまらないというふうにも思わない。やはり現代において、なんとか美しいものを実現して欲しいものだが、そうなるにはどうすればいいのか、過去の例ではどうだったか、というふうに考えるわけである。考えるけれども、結局何かかがわかったというようなことは滅多にない。


それにしても、「美しいもの」にとっての現代の状況というのはだんだんと悪くなっているような気がしてならない。「美しいもの」が少なくなっていくというよりも、美しいものを生み出していく条件といったことが悪くなっている。その結果として「美しいもの」が少なくなっていくのである。


数日前の新聞に、内閣官房の広告が出ていて、こんなことを書いていた。
 
「美しい国」プロジェクト あなたが思う“美しい日本の粋”教えて下さい」

こういうのって、全然美しくない、と僕は思う。