「筆順」の思想
懸腕直筆ということを教えてくれたのは岸野魯直という水墨画家である。

今の僕はこの人の絵に完全にイレ込んでしまってるのだが、「よくわからない」と首をかしげる人も多い。それもわからないでもない。というのは、絵の見方ひとつにしても僕らの感覚というのは西洋的な見方をベースにしているから、そういうところから見ていくとわからないところがあることは確かである。

懸腕直筆の話を聞いたときに、ついでに、「水墨画にあまり馴染みのない人に、絵の見方をどうアドバイスしますか?」と訊いた。
その答えは「まず、西洋画とはちがうということを自覚していただきたい」ということだった。ここでいう西洋画とは油絵に代表されるものと考えてよい。キャンパスに油彩は紙に水墨とは当然ちがっているわけだが、魯直さんの言う「西洋画とはちがう」ということの意味はもっと根本的なものであって、絵の成り立ち方そのものがちがうのだということを言っている。


そのちがいが何かということが、たぶん今はほとんどわからなくなっている。それは僕に言わせれば「西洋と東アジアのちがい」にまで遡ることができる性質のものであるが、その「西洋と東アジアのちがい」ということそのものが、通常は西洋的な視点から捉えられているから、本当のところがわからなくなっているといった、よくある議論と軌を一にしている。

つまり、「西洋的概念の中で捉えられるアジア」という視野の中で魯直さんの水墨画を見ても「わからない」ところがある。あるいは単に古臭く見えるだけであったりする。しかしそうではなくて、「西洋」がまだ侵入して来ない以前の「東アジア絵画」の成り立ちということがイメージできるならば(そのために「日本のかたち検討会議」というのを別なところでやってるのだが)、そこで魯直さんの絵が俄然浮上してくるのである。


その浮上の仕方というのは、誤解を恐れずにいうならば、明確に「西洋を否定する」もしくは「西洋から自立する」という形で浮上してくる。西洋的な造形法とは全く異なった造形法もしくは造形の精神がそこには追及されているのである。この意味で、魯直さんの水墨画は現代絵画の世界にあって、もっともラジカル(根源的)な立ち方をしているように僕には見える。

西洋絵画の造形法と東アジア絵画の造形法のちがいのひとつに「筆順」ということがある、と魯直さんは言う。「筆順」は平面上に絵画空間というものを成立させていく東アジア的な方法であり、それは西洋における「陰影法」に対応するものである。

「筆順」とは、要約して言えば「ものの形や空間を捉えていくには順序がある」ということだが、その順序というのは「気の流れ」に即している。そしてこれは東アジアの伝統的な思考法に基づくものである。易とか陰陽二元論とか体用論といった東アジア独自の哲学がバックボーンに控えている。


気の流れ」を紙や布に定着していく場合の、筆を動かす身体の作法が懸腕直筆である。それは、「気の流れ」を観察するだけでなく、観察者(描き手)もまた気の流れの中に参入していく方法であり、このようにして水墨画の空間は、主客が混ざり合い、溶け合っていく空間として成立していくわけだ。

古い水墨画を見て、その筆順はどうであるかということは分析していくことができる。しかし「筆順」そのものを言語化(哲学化)することはとても難しそうである。「筆順」とその産物としての「絵画」は徹底した実践知にほかならず、それが東アジアの精神世界を形成してきたのである。

岸野魯直の絵が見られるサイトは

http://homepage2.nifty.com/katachi/GALLERY02.htm