懸腕直筆の作法
僕は元来字が下手で、自分が書いた字を見るとすごい自己嫌悪を感じる。だからら一度書いた文章を読み直すということはほとんどない。パソコンで文章を書くようにしてからは、自分の字を見るのを余儀なくされるということも少なくなって、その点では大いに助かったのである。

それでもやはり字が上手く書けるようになりたいという願望のやみがたいところがあって、実は1年ほど前から毛筆で字を書く練習を続けている。といっても独習なので、いい加減なところもあるのだが…。お手本は古典で、漢字は中国の六朝時代のもの、ひらがなは平安時代のものを臨書したりしている。

しかし字を書くというのは不思議なもので、練習をすればだんだんとお手本の形に似せて書けるようになるが、数日も習字から離れるとたちまち元の木阿弥にもどって、あいかわらず自己流の下手な字を書くようになる。結局少しも上僕は元来字が下手で、自分が書いた字を見るとすごい自己嫌悪を感じる。だか達していかないのである。

最近ある人から筆の持ち方というのを教わった。それは懸腕直筆と呼ばれる持ち方で、習字や水墨画の実技書でも紹介されている持ち方である。しかしなぜそういう持ち方をするのかは、僕が見た限りではどの本にも書いていない。だから筆の持ち方に神経を配るということもたいていの人はやってないのではないだろうか。

ところが僕に教えてくれた人は、なぜそういう持ち方をするのかという理由まで教えてくれたので、「なるほど」と合点されるところもあって、書き始めるときには筆の持ち方に注意するようになった。そうすると、字が変わった。僕の50年近い書字の歴史において、字の形が違ってきたと実感されたのは初めてである。そして字を書くことが面白く感じられてきた。


実技書には筆の持ち方を写真で見せるものは多くても、ポイントになることはどういうことかということは書いていない。僕に教えてくれた人は、ポイントは腋を開くこと、且つ腋を締めるということである。腋を締めるのは、スポーツでも芸事でも、諸般に通じる身体技法の基本である。腋を締めなければ手先はどうしたってぶれてしまうのである。

他方、腋を開くのは、肚から腕を通して筆の先に気を送るためである。身体に気を通すためには腋を開いておかないといけないというわけである。かくして、腋は開くと同時に締めるという矛盾した態勢をとることになるのだが、僕の解釈では懸腕直筆はそれを可能にするのである。




さて、懸腕直筆で字を書くとどういうことが起こるかというと、文字の形に拘るということがなくなるのである。文字は形ではないということが、この時初めて会得された。文字は形ではないということは、古今の能筆とされる人の字を見ると千差万別であって、どういう形をとらないといけないということはないということがわかる。つまり、どういうふうに書こうとそれは書く人の勝手、ということである。

それでもやはり能筆とされる人の字には格調というものが漂っているし、いわゆる「達筆」といわざるをえないものがあるわけだ。それは一体何なんだろうか。文字は形ではないとしたら何なんだろうか。これは僕にとってはずうっと解けない問題だったのだが、懸腕直筆の法を採用することで「そうか」と思うことがあった。

文字は気の流れであり、またその形である。肚に発した気が、腕を通し筆先から紙へと通っていく、その流れにのっていってできる形が文字である。そう気が付いた時に、字が変わった。決して上手くなったとは言わない。ただ、自分の字に向き合うことを苦痛とは思わなくなったことは確かである。