「実践知」の提唱(続続)
前回はちょっとコワモテ風で書いたので、今回はやさしく書いてみることにしよう。
「実践知」とはどういうものであるかというと、他方で「近代知」というものがあってそれとは対照をなすものとして「実践知」ということを言っている。

では「近代知」とは何かというと、簡単に言えば「学校で教えられる知識や考え方」である。「実践知」はその反対だから、「学校では教えてくれない知識や考え方」を言うのである。したがって、学校に通うことが少なかった人ほどより多く「実践知」を身につけているということが、一般論として言えると思う(もちろん例外はある)。
例をあげれば、最近、お笑いタレントの島田洋七が書いた『佐賀のがばいばあちゃん』という本がベストセラーなのだそうで、僕はテレビでそのことを知ったのだけれど、ばあちゃん語録というのが面白く、大方の人もそう感じていて、かなり人気なのだそうである。そのばあちゃん語録というのはすべて学校では教えてくれないが、人生知として説得力のある類のもので、その意味で、僕に言わせれば「実践知」なのである。
たとえば、人が転んだ時にはどうするかということで、「近代知」ならば、すぐに起き上がって後れを取り戻そうと努力しなければいけないということになるが、がばいばあちゃんは、転んだら2、3日そのままでいればいい、というのである(直接読んだのではないが、テレビで島田がそう言っていた)。それはまさしく実践知的な対処法であると僕は思う。前者と後者とどちらが人生を豊かに生きられるか、ここはひとつ考えどころだろう。
しかし僕がここで紹介したいのはもうひとつ別な本(例)である。それは『さつよ媼(おばば)おらの一生、貧乏と辛抱』(石川純子著 草思社)という本で、宮城県登米市の今年96歳になるおばあさんの語りおろしによる半生記である。さつよ媼は小学校もほとんど出ておらず、90歳を過ぎてから漢字の勉強を始めたというような人だから、ほとんどまじりっけなしの実践知100%で生きてきた人と言ってよい。
タイトルからして、今の人が敬遠しそうな苦労話のオンパレードだし、戦前の東北の貧困のすさまじさは想像を絶するものがあって、読むからに気が重くなるような内容ではあるのだが、さつよ媼の語り口は底抜けに明るくて、うらみがましいような言い草は微塵もない。佐賀のがばいばあちゃんのように受けやすい語録のようなものはないのだが、過酷な境遇を病気ひとつせずに生き抜いてきた心身の強靭さとやさしさは、ある意味、この世を強く正しく生きていくもうひとつの知性の在り様に他ならないと思う。
さつよ媼の語りの魅力のひとつに、擬音や擬態語が実に豊かに駆使されることである。たとえば「デチバツ、デチバツ火を焚く」(デチバツは焚火の音)、「米を背負って、うんつぎ、うんつぎ歩く」「松林のこうこうとなる寂しい道」「雪がもつもつと降る」といった表現が、本の最初から最後まで次々と出てきて、言葉を聞くことの快感のようなものを体験させられる。まさしく宮沢賢治の世界に通底する東北の言語的風土性を実感するのである。
出版社の編集者が「これらの懐かしいことばは(中略)すべては身体を動かしたり、働いたりするなかで肉体に強く深く刻み込まれたものなのであろう」(草思社ニュースNo.1504)と書いているが、これなどまさしく真正の「実践知」とするべきである。