「実践知」の提唱(続)
ここはやはり、実践知についてもう少し詳しく書いておくべきところだろう。(どっちみち、これからは実践知、実践知で明け暮れることになりそうだから、このコラムではなるべく他のことを書くようにしたいが、それでも最低限のことは書いておいた方がよいだろう。)
「実践知」ということを提唱すると、多くの人は共感の意を表明してくれる。「手作り」とか「ものづくり」という言葉がある種憧れを伴うような響きをもって口にされるようなこの時代には、確かに共鳴者も決して少なくないだろうと予測される。しかし、その理解の度合いがどのぐらいのものであるかは人それぞれである。

僕は、実践知を「近代知」と対比させて提唱しているのであるが、学校教育を受けた人のほとんどはその「近代知」を身につけているのである。だから「実践知」ということも、実は「近代知」的な判断の仕方で理解されていることが多いのである。つまり「近代知」の変種として、あるいは「近代知」を補足する知としての「実践知」というふうに理解する人はかなり多いようのではないかと思う。
僕が提唱している「実践知」が理解される条件として、まず第一には、「近代知」批判の視点を持ち得るかどうかということがあるが、そのためには学校教育を通して身につけた自分自身の中の「近代知」を批判する視点、したがって自己批判としての「近代知」批判の視点を持ちうるかどうかということがある。

カルチャーセンターでものづくりを学んでいる人に、自己批判としての近代知批判、などといった意識を持つ人がどれだけいるだろうか。その意味では、カルチャーセンター的な趣味的なものづくりの学習は、「実践知」の範疇外とすべきものである。
そのように規定していくと、僕の言う「実践知」はとても許容領域の狭いものに感じられるかもしれないが、実際それはひどく許容領域の狭いものなのである。何故かと言えば、近代知を批判するということは、近代知で作られてきたこの現実の社会を批判するということであり、「実践知」を提唱するということは、この現実の社会を変革するということを意味するからである。

つまりそのような変革の志向なしに「実践知」の実践ということは成り立ち得ないわけであって、それは極めて困難な、急峻な崖っぷちの道を登っていくようなものなのである。それに耐えられるような精神力を今の人はどれだけ持っているだろうか。

こういうふうに書くと、なんと古風な考え方と思われるかもしれないが、「工芸文化の復興」を企むなどということは、それ自体古風な発想なのである。

ブランド物を追っかけて消費社会の奴隷となって「勝ち組み」に仲間入りするような生き方には、僕はまったく関心も興味も持てないでいる。そういうのが社会だとか、現代という時代だとか、リッチであるとかとは僕は全然思わない。そんな幻影を追っかけてどうするんだと僕は思う。
そういう風潮にはのっからないで、世の中の権威とされるものには擦り寄ろうとしないで、「みんなと同じ」ではあろうとしないで、それゆえに時々寂しい思いはするけれども、そういう時に自分を慰める術を知っていて、自分で見つけた道を一人で元気に前向きに歩いていこうとする人たちこそ、「実践知」を理解する資質を有する人たちである。

「実践知」を理解できるかどうかということは、そういう生き方ができるかどうかということに関わっているのであって、趣味でものづくりをしたり、高価なものをコレクションすることが豊かであることのステータスであると考えることとは、無縁なのである。