「実践知」の提唱
知り合いの刺繍家(女性)は年齢が50歳ぐらいで、いい仕事をする人なのだが、「黒留袖の金コマの直し」の依頼があって、工賃の見積もりをした時に、時給1,000円として計算したところキャンセルされたという報告が、彼女のブログでなされていた(去年の話だけど)。その理由を彼女はいくつか推測していたが、そのひとつに、「私の工賃が5,000円、問屋が倍、店がそのまた倍と工賃の上乗せ額がべらぼうで、高く感じた」とある。

これに対してコメントが寄せられていて、「職人に入る工賃は安すぎる傾向があります。だからみんなやめてしまうのかもしれません。時給で働くほうが楽なんですよね・・・。めげずにいい仕事続けたいですね」とあった。これは着物業界のエピソードだけれど、腕のいい職人あるいは工芸家が低所得に呻吟しているという話は僕の周辺では日常茶飯事のように語られている。それで、工芸の仕事を受け継ごうとする若い人が急速に減少している…。

他方で、ものづくり大学といった職人養成学校のようなところを志望する若者が結構多いという話も聞く。これはしかしテレビメディアや新聞を通しての情報で、テレビに写される画像ではいかにも夢のある職業選択のように報じられるが、現実はどうだろうか。

工芸の伝統的な産地では技術研修機関のようなものを設置して「手に職をつける」ことを希望する人々(年齢制限はない)を指導したりしているが、今どき、手に職をつけたって実入りのいい職業にありつける可能性はほとんどない。僕が知っている研修所の研修生たちも、卒業してから仕事が見つかるかどうか、不安な気持ちを隠そうとしない。

しかしこういった話は最近になって出てきた現象というわけではなく、そもそも近代日本にずうっと付きまとってきた現象で、現代に近づくほど徐々に深刻さを増してきているというにすぎない。だから、工芸技術の後継者を育てるとか、職人の減少化といった問題は昔から取り沙汰されてきたことである。

けれども、マスコミが職人的な生き方を持ち上げたり、職人技術をおだてたりしてきたわりにはその効果もなく、今や伝統的工芸技術は消滅への坂道を転げ落ち始めているのである。
根本的な解決策が見つからない、というのが現実である。何故か。それは「工芸的なものづくり」が現代社会の価値観の中では非常に低く見られているからである。

それを低く見なす価値システムとはどういうシステムかというと、それは「末は博士か大臣か」式の立身出世志向を支える「近代知」が尊重されるような社会システムである。そういう社会システムが維持される限り、「工芸的ものづくり」は常に不当に差別され、無視されていくことになる。

最近僕が企画した座談会で、ここに書いているようなことが話題になり、そこで僕は「実践知」という言葉を提示した。これは、官僚やエリートの養成を目指す「近代知」に対抗するもうひとつ別な「知」の在り様を示したもので、「近代知」が、自分は何もしないで他人がやったことの上前をはねることを目的とする「知」の体系であるのに対して、「実践知」は自分の身体を動かし、自然に働きかけてものを作っていくことを通して獲得されていく「知」を表している。

そしてそのような「実践知」が尊重されるような社会を実現していかない限り、「工芸的ものづくり」とか職人的な知恵や技術といったことは、虐げられ続けるのである。

ということで、これからは「実践知」が展開される場として「工芸」を捉え、論じていきたいと思う。