「芸術」批判(4)――「個人」の位置づけ
朝鮮半島から日本へ、中原からさらに距離を置いたところでは、中華の威光も当然弱まってきて(ここには天皇家による専制体制があるけれども、それは中華的な専制体制に比べれば強大とはいえない)、そのぶん楕円の形もゆがんできたりいびつなものになってきます。王権と民衆の相互の緊張関係というのがかなりゆるんできて、ある種の自由な雰囲気というのが出てきます。

言い換えると非対称性が増してくるわけですね。そのように、ゆがんだ、いびつな、非対称的な形で出てくるもの、それを僕は「個人という形式」と呼ぶことにしています。少なくとも東アジア地域における「個人という形式」です。そのモデルとしてイメージしているのは、桃山時代に千利休が創始した茶の湯が珍重する「ひょうげたるもの」の理念です。それは利休の弟子古田織部によって展開された「ゆがみの美」に代表されるようなひとつの美的範疇です。

そのような造形美は織部様式と呼ばれたりしますが、桃山期造形の粋であり、日本独自の美とされてきました。それがなぜ日本で生まれてきたのかということのひとつの説明として、王権と民衆の力関係のゆがみまたはゆるみとして出てくる「個人という形式」という概念を考えてみたのです。


しかしこれは日本だけの特徴というのではなく、中国の造形美術史上でも、「真行草」における草的な、ゆがんだ、狂風の造形美を創出してきた個人は、王権の支配体制から遠くはなれた山水田園に隠遁生活を送るとか、国家体制が崩壊した乱世時に多く輩出しているということからも、「個人という形式」を適用することができると思います。朝鮮半島でも事情は同じでしょう。

ちょっと難しいことを言っておくと、「個人」は国家や民衆を構成するアトム(原子)ではあるけれども国家や民衆それ自体ではなく、時として両方に対して孤立無援に突出したり対立したりする場合があります。しかしそのアトムの中には国家と民衆の力関係で描かれる楕円構造が内蔵されてもいるのです。

これは次回のテーマになるけれども、「個人」として立つという場合にも、その立脚点は国家の側に求めるのか民衆の側に求めるのかということが問われてくるということにもなってきます。

さてもうひとつ、西洋の場合を瞥見しておくと、この場合には王権と民衆に加えて神権という柱があって、話は東アジアの場合よりもかなり複雑になってきます。ここでは「個人」の成り立ちに限って言えば、王権の支配からも神権の支配からも分離して、契約理論に基づく市民社会を構成するための基本単位として創作された概念であると思います。

だから「個人」の内実は何もなくて、それを純粋化の方向で突き詰めていくと空虚しか見出せなくなるから、新しいもの(オリジナルなもの)を創ってそれで補填していこうとするわけです。近代市民社会を構成する「個人」というのはそういうものだと思います。
 
そして近代西洋的な「個人」の考え方の成立は、「芸術」というひとつのジャンルが作られ美の問題は、学問の領域においては「芸術学」という人文科学で、実作の領域においては「芸術家」という専門職に委ねる、という目論見を伴っていたわけです。


近代において芸術がファインアート化を志し、市民社会から遊離していったということは、美の問題を国家や経済や法などといった問題から切り離して一領域に封印していく市民社会の意向と、期せずして一致していたというわけです。かくして近代芸術は、ファインアート化への道を歩みつつ衰退していくという運命を担うことになったのです。