「芸術」批判(3)――国家と民衆の関係

「美術」と「工芸」が分化する前の時代の話を続けます。

この時期の美的創造の主体は主として「国家(またはそれに準ずる共同体)」であったということが一般論として言えるということを前回までに書きました。
その根拠としては、美的な造形物が高いクォリティを維持して盛んに造られた地域や時代は、かならず国家や共同体が政治的・経済的に繁栄していた地域であり時代であったことを挙げておきます。


この観点で、東アジア地域(中国、朝鮮半島、日本)の美的創造の歴史を振り返ってみることにしましょう。この地域では中華思想というのが全体をまとめている政治思想的な機軸としてありました。つまり中原と呼ばれるエリアがこの地域の世界の中心として設定され、朝鮮半島や日本は辺境として位置づけられていました。

朝鮮半島と日本は直接的に中華に支配はされなくても、中原を治める王権には定期的に朝貢して服従を表明していました。中華を支配する王権は同時に東アジア全域に覇権を及ぼしていたと言えるでしょう。そして朝鮮半島や日本の朝廷は、政治制度的にも文化的にも中華に建てられた国家のシステムを模範として移入し、各々の王朝の体裁を整えていたわけです。


中華の王権は東アジア地域において絶大な中央集権国家を形成し、そのステータスおよび生産力の表現としての美的・技術的に先端的な加工物を、国家が経営する工房で大量に製造してきました。それが今日まで伝世されてきたいわゆる「中国の美術工芸品」と呼ばれているものです。

その特徴は、高度な技術力をベースに大量の時間と労力をかけて精緻を極め尽くした作振りと、完璧であることを目指した造形美にあります。それはまさしく権力の完全性を象徴するものであり、そこには一点のキズも歪みも許されませんでした。その造形理念は、中心が1点(皇帝)にしかない円的な完全性を理想とするものです。


しかしその支配力も、朝鮮半島や日本へと距離が離れていくにつれて弱まっていきます。たとえば朝鮮半島では、ここにも国家があって、国家が経営する工房で工芸品が作られていました。その美的規範は中国で作られるものに求められていたし、やはり権力の完全性を象徴する造形美が目指されていましたが、中国のものに較べると、その完全性にどこかぬけた感じがあって、人間的なぬくもりを感じさせるところがあります。

中国よりも朝鮮の美術工芸品の方が好きだという人は、たいていこの暖かみを好ましく思うようです。


いささか図式的にいえば、王権の支配力が強い国家の内部においては完全性を象徴する造形が追及され、その中心から次第に離れていって支配力が弱まってくるにつれて、完全性の表象にもゆるみが出てきて、暖かみを帯びてくるようになります。僕はこれを、「権力はより完全な対称性を志向する。

権力による支配力が弱まるにしたがって対称性が破れていく(非対称性が生じる)」というふうに定式化しているのですが、これはここで初めて公表するのです。(「対称性が破れる」という表現は現代物理学から拝借したものです。)

国家の支配力が弱まるにつれて、その地域で制作される造形物に非対称的要素が発生し、暖かみが増してくるわけですが、問題はこの「暖かみ」というのは何なのかということです。対称性が破れて非対称的要素が発生してくるとは、比喩的にいえば円の形が楕円の形になっていくようなことです。

楕円は焦点と呼ばれる二つの点を、いうならば中心として持つような変形した円の形です。この二つの点が一致すれば中心が一つの正円をなすわけで、中央集権的な支配力の強い国家が志向する造形美のあり方を表しています。とすると、楕円形における二つの点の一方は国家的な中心と考えることができ、もう一つの中心は「国家」に対峙するもうひとつの中心と設定することができます。

僕はこれを国家に対峙するものとしての「民衆」的な中心と定義したいと思います。いわば国家的な中心から分離して民衆的な中心が発生してくることによって、その地域の造形物が非対称性を生じ、「暖かみ」を帯びてくるというわけです。


僕は朝鮮の伝統的な造形の特徴は楕円的な構造にあると思います。柳宗悦が民芸を発見する最初のきっかけになったのが、朝鮮の美術工芸との出会いとその美学的な考察であったということは、この意味でとても象徴的なことだと思っています。