角偉三郎さんのこと
輪島の漆器作家、角偉三郎さんが亡くなった。享年65歳。
日本男子の平均年齢からも、工芸家としての年齢からしても、まだ死ぬには早すぎる歳である。


この数年会えずにいたが、昨年の1月に一度癌の手術をして元気になったという噂を聞いて、まだまだ大丈夫と安心をしていたために、死に目に会うことができなかったのがとても悔やまれる。

角さんはどういう人であるかというと、一言で言っちゃえば「漆器の原点を求めながら、現代の漆器を創った人」ということになるだろうか。「漆器の原点」というのは、とりあえず具体的な見え方としては能登半島柳田村で作られていた合麓椀とか、根来塗りとかの質朴な漆器の再生であり、またブータンや東南アジアの漆器作りを探ったり、沖縄を何度も訪ねたりしていることである。

でももっと深い意味で言えば、現代の漆器作りとしての自分自身の生き方の原点が探られてもいたのである。だから他方に、現代美術の影響を受けたようなオブジェ風の作品も作ったりしている。そして、昔風の質朴な漆器と現代美術風のオブジェ作品とが、角さんの創作世界でクロスオーバーしたりするわけである。
僕が角さんの名前を最初に意識したのは、1980年代の初め、日展の会場で沈金によるパネル作品を見た時で、魚の絵の描き方が面白く、ちょっと変わった表現をする人だなと思って名前が頭に刷り込まれたのである。その後、日本海造形会議という北陸のアーチストたちのグループによる展覧会を金沢で見た時に、やはり沈金で純抽象的な表現をした作品が出品されていて、これは是非会って取材したいものだと思った。

当時、「現代の漆芸表現とは?」ということを考えていて、たとえば、漆は塗り重ねていかないと定着しないと言われるけれども、単に樹液を流し掛けしたりするだけとか、そういう素材のまったくアナーキーな扱い方はできないものかと思ったりしていた

当時38、9歳ぐらいだった角さんとの初対面では、真塗りをした漆の表面にブロックタイルを圧擦して、生じた傷に金を埋めていく(沈金する)のはどうかなというような話をして、その時僕は、漆芸の世界もこれからやっと面白くなっていきそうだと思ったものだった。
当時、角さんは日展を退会するかどうかで悩んでいて、輪島ではいつも夜中まで呑んだくれていた。僕も、角さんの家でお世話になりながらあちこちの呑み屋さんにお供させてもらった。そしていろんなタイプの職人さんや、漁師たちと一緒に呑んで、何やかにやと議論の花を咲かせたものだった。輪島の夜はいつも哄笑が満ちていて、後に雑誌『かたち』で輪島特集を組んだときのタイトルを「漆が騒いでいる」としたのも、角さんを字句とする当時の輪島の、特に普段表立たないところで仕事をしている人たちの活気を伝えたいためであった。

その後、90年代には全国の漆器産地職人のニューウェイブな動きを東京の数軒の工芸画廊の連合で展観する「漆山脈展」を角さんと仕掛けたりした。
そのうち、角さんとゆっくり呑む日を楽しみにしていたのが、突然それがありえないことになったのが、未だによく呑み込めない、そういう心境である。ともあれ角さんのご冥福を祈りたい。合掌