「工芸的視点」について(1)
工芸って面白そうだなと思ったのも1970年代の後半で、勤めていた美術業界誌で工芸部門の取材を担当させられたのがきっかけだ。

やってみない?と誘われてやってみようかという気になったのは、当時、現代美術とか現代文学とかにいささかがっかりしていたことがあって、一見古臭いもののように見えるやきものなんかが妙に新鮮に感じられたりしたのである。

その理由のひとつは、工芸には「素材」というひとつの世界があって、それは作り手の意思とか自己表現とかといったこととは別個なものとしてそれ自身の世界を持っているということに思い当ったということがある。

もうひとつは、用途という要素が含まれていて、自分のためにではなくて他人のために作るという局面を擁するという点である。こういったことは、「美術」や「文学」といった近代芸術の考え方からすると不純な要素である分、芸術としての純粋性の観点からはクォリティが一段落ちるジャンルというふうに見られていたし、僕自身もそういうふうに感じていた。
けれども、「美術」とか「文学」とかがなんだかつまんないなと感じられ始めて、その純粋性というのが胡散臭く感じらるようになると、「工芸」の不純性の方が人間の現実の姿に近くて面白いんじゃないかという気がしてきた。そして実際の体験を通して、確かにそこは非常に興味深い世界であることを実感した。


近代の芸術には純粋主義の考え方があって、それは個人の「内面性」の表現として展開される思想や感情にほとんど絶対的な価値を認めていくような行き方である。その場合に作品の何を評価するのかと言えば、「作者は何が言いたいのか」とか「独創的な考え方が認められるかどうか」といったようなことである。それで、芸術家を目指す人たちはみなどういう自己主張をするかとか、新奇なものをどうやって作るかということにやっきになっていくわけだ。

だけど自己主張というのはなんだか五月蝿くて耳障りだし、新奇なものなんて「勝手にやってろ」というふうにしか受け止められない。まあそういったことで、現代美術や現代文学が求める「新しさ」ということが少しも面白くなくなってきたのである。それよりも工芸のような、「素材」や「他者」といった自分の意思の外側にある世界と格闘しながら、何事かを成り立たせていこうとする、そういう行き方の方がよほど面白いと思うようになった(とはいえ、工芸の世界にも深刻な問題はあるのであって、それについてはおいおい書いていきます)。

美術や文学が依拠するところの考え方を、ここではコンセプチュアリズム(conceptualism, 観念主義)という言い方で総括する。コンセプチュアリズムはいわば観念に自足する世界を提示していくことが目指されるが、そういうのはいずれ自家中毒を起こしていくのである。けれども人間の生産活動というのは本来、外的世界に働きかけて新たな存在(もの)を創り出していくというのが基本的な構造である。

そのように人間の生産や創作活動を捉えていくこと、これを僕は「工芸的視点」と読んでいる。これまでコンセプチュアリズムの枠組みで捉えられてきたものを「工芸的視点」で読み替えていく。そこでは「作者は何が言いたいのか」ということよりも、「そこで何がどのように成り立っているのか」ということがより本質的である。そのような「工芸的視点」を実践していくことが僕における工芸評論の方法である。